パロディ
□『ただ、名もない想いに』
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大きくなったらお嫁さんにして欲しいと、柔らかな頬を紅く染めながら少女が口にしたお願いに、アスランは二つ返事で「うん」と答えた。
その子は昔から自分に懐いてくれていたし、アスラン自身も大切にしていた女の子だったから、その少女がそう言ってくれるなら、否やはなかった。
ただ、正直に言えば、子供同士の軽い口約束のようなものだと、アスランは認識していたと思う。
月日が流れて、その少女が中学にあがった頃、今度は好きだと言われた。
まだ少し幼さを残す少女は、瞳を大きく瞬かせていて、そのあどけなさに思わず頬を緩めたアスランは、読んでいた本を脇に退けると少女の煌めく髪に指を通して笑んでみせた。
可愛くて、可愛くて、大切で。妹のような少女の存在は、アスランにとって最上級の位置付けで、いつだって心を占めていた。
一番は、今も昔も変わらず、たった一人きりだった。
「お前、あのミーア・キャンベルも振ったって本当か?」
「……ミーア・キャンベル?」
講義が終わり、帰宅の準備を整えていたアスランは、突然に投げつけられたディアッカのその問いに首を傾げた。
記憶を辿ってみるものの、誰のことであるかが分からない。
「もっぱらの噂だぜ?今日、ミーアに告られたんだろ」
「もしかして、あの髪の長い子か?ぴんく色の?」
「は?あの子有名だろ?知らなかったのか?」
「名前までは……」
自分の知る限りでは同じ講義は取っていなかったはずだ。
最近、たまに声をかけられていたような覚えはあるが、特に親しくしていたわけでもないため、名前までは知らなかった、と。
そのまま正直に伝えれば、途端にディアッカが呆れたような顔になり、溜め息混じりに話を続けた。
「このあいだはルナマリアで、その前がアルスター。うちの大学の三大美女の誘いをあっさり振った男だって今持ちきりだけど?」
「は?誰の事を言って……」
「お前だよ!」
大声で叫ばれて、アスランは顔をしかめた。
「うるさいな。そんな大声で言わなくたって十分聞こえる」
「なんでこんな愛想のない奴が……まったく世の中不公平だぜ」
「悪かったな」
隣でぶつくさ言ってる男を無視してバッグに教材を詰めていると、机の上に置いていた携帯がチカチカと点灯した。
二つ折りのそれを手にとって受信メールを開けば、そこには見慣れた名前と飾り気のない簡素な文で短い一文が。
そのメールに、アスランは無意識に表情を緩めた。
「おい、アスラン、顔が緩んでるぜ。お前にそんな顔させるって、さては例のお隣の子だな?カガリちゃんだっけ?」
「気安く呼ぶな。用が出来たからもう帰る、じゃあな」
「おっと、図星か?三大美女には目もくれず、女子高生に手を出すなんてお前も中々」
「カガリは妹みたいな存在だって前から言ってるだろう」
「どうだかね〜。そんな顔して言われても説得力ゼロっつーかね〜」
「しつこい」
一睨みして背を向けると、アスランは帰宅を急いた。
足早に歩を進めながら、メールを手早く打ち込み返信する。
送信先は隣の家に住む、幼なじみでもあり、妹のように大切にしている三歳年下の女の子。
ディアッカの推測通り、メールの相手はカガリだった。
屈託ない笑顔でぱっと顔を輝かせては嬉しそうに駆け寄ってくる姿が可愛らしく、こんな自分を昔からずっと慕ってくれている。
アスランにとって、カガリは何よりも大切で誰よりも優先したいと思える、そんな存在だ。
そのカガリが、勉強を教えて欲しいと言っているのだから、断る理由などあるはずもなかった。
教科書を手に、気難しい顔で考え込む少女の姿を思い出し、自然、表情が緩む。
途中でどこかに寄って、カガリに甘いものでも買って帰ろう。そう思いながら。
いつだって、そう、いつだって自分にとっての一番は、変わらなかった。
ただ、感情の名前さえ、誤たずに分かっていれば。
8月の終わり。少しだけ、この日はいつもと違っていた。
いつもであれば“勉強を教えて欲しい”から始まるメール内容が“会いたい”とだけ一言。
何かあったのだろうかと、疑問に思いつつもアスランはすぐに快諾のメールを送り、それからキッチンに足を運んだ。
確かまだカガリの好きな紅茶があったはずだから、と。
もっと早くに言ってくれていたらケーキでも用意していたのにと思いながら、アスランは最近の少女の様子をふと思う。
確信はないが、カガリは近頃、元気がないように思えた。
会えば変わらず笑ってくれるのに、どうしてだか時々……
そこまで考えた時、来訪を告げるインターホンが鳴った。
恐らく、カガリだ。
けれど玄関の扉を開けば、そこにはいつもと違う少女の姿があった。
光をかき集めたかのような髪は常よりも丁寧に梳かれ、ふわりと風に乗って柔らかに揺れる。
淡い色彩を放つグリーンのワンピースを身にまとった少女は、所在なさげに視線を巡らせたあと、アスランをゆっくりと見上げた。
「────」
一瞬、身動きさえままならず、アスランは言葉に詰まった。
いつもと異なる少女の雰囲気に、飲まれてしまいそうで。
「どうしたんだカガリ?何か、分からない問題でもあった?」
勉強を見て欲しいとはメールにはなかった。
それらしきものも持っているようには見えない。
それでもなんとなく、何かの均衡を守るような、そんな意識下のもとにアスランは問いを口にした。
「夏休み最後だから、アスランとゆっくり出来ないかなって」
駄目か?と首を傾げる少女に、アスランは思わず笑みを浮かべる。
そんなこと、問われるまでもなく、答えは決まっていた。
今も昔もいつだって、自分にとっての一番は変わらず、目の前の少女なのだから。
「そう言えば、大学のレポートは終わったのか?」
「全部終わったよ。カガリは夏休みの課題終わったのか?」
「ぎりぎりで昨日終わった。キラはまだ闘ってるけど」
「毎年恒例だしな」
他愛ない会話を暫く続けながら、アスランはカガリの一挙一動をじっと見つめていた。
やっぱり、様子が違う。雰囲気が異なるせいで、そう感じるだけなのだろうか。
視線の先には、グラスに注いだアイスティーを口に含むカガリの姿があった。
さらりと首にかかる蜜色の髪の隙間から、小さく動く白い喉をふいに見つけて、アスランはぱっと視線を下ろした。
なにか、見てはいけないものを見てしまったような──そんな罪悪感に襲われて。
「アスラン」
ことりと、ガラステーブルの上にグラスが置かれる音と、緊張を含んだ声が室内に満ちて、アスランは顔をあげた。
「アスラン、ちゃんと聞いて貰いたいことがあるんだ」
「……カガリ?」
あまりにも真っ直ぐに自分を見つめる琥珀の瞳に、やはり何かが違うとアスランは思う。
その違いを探すべく少女の傍に寄れば、琥珀の双眸が微かに揺れたような気がした。
「アスラン、好きだ」
真っ向から言われた言葉に、アスランは戸惑った。
その言葉は、何度か聞いたことがあるし、カガリが自分の事をずっと以前から慕ってくれていることはアスランとて知っていた。
けれど、どうして。カガリは、そんな泣きそうな顔で。
「カガリ、どうしたんだ?」
「アスランが好きなんだ。もうずっと前から」
知っている。そしてそれを嬉しく思っている自分がいる。
好きと言われる度に、これ以上ないくらいに満たされている。
大切な少女に、好きだと言われて嬉しくないわけがなかった。
だから、いつも、自分は。その言葉に対して。
「俺も、カガリの事が……」
好きだと。いつも、そう言ってカガリの髪を撫でて──…
「違うっ!私はそう言う意味で言ってるんじゃっ……」
「カガリ……」
なら、どんな意味で。
動揺から上手く回らない思考は、悪戯に空回るだけで役に立ちそうになく。
何か言わなければと、泣きそうな顔で自分を見上げる少女にそうは思うものの、金縛りにあったように言葉は出てこなかった。
そんな自分に、目の前の少女が自嘲気味な笑みを浮かばせて、揺らいだ瞳のままそっと近寄る。
きしりと、フローリングが小さく軋んだ。
吐息が触れ合いそうな程のその距離と、今にも消えてしまいそうな少女の儚さに、アスランは時が止まったように身動ぎ出来なかった。
柔らかそうな、桜色の唇が、重なりそうになるのを、ただ、見つめることしか出来ないまま。心のどこかで、距離を詰めて、触れてしまえたらと、思考を掠めて。
けれど、そうだ、カガリは自分にとって、妹のような。
「どうして……」
悲しみに揺らいだ声が、アスランの思考を遮った。
唇が触れ合う事もないまま、カガリがゆっくりと身を引いて、小さく痛みを含んだように笑う。
「こう言う時は、ちゃんと突き放してやるのも優しさだぞ?」
「………カガリ?」
「なんてな。アスランはいつも、優しいよ」
ともすれば、さっきまでのことが夢であるかのように、カガリは笑った。
触れれば消えてしまいそうな、その表情を前に、訳もわからず胸の奥が軋んだ。
そんな顔をさせているのは、誰だと言うのだろうか。
不意に。カガリが視線を巡らせ一点を見つめた直後、沈黙を破るような機械音が小さく響いた。
「キラからだ。ごめん、ちょっと出るな」
視線をアスランに戻したカガリが、吐息を零すように薄い笑みを落とした。
なにかを諦めたような、寂しそうなカガリの表情に、胸が否応なしに騒ぐ。
見落としてはならないような気がした。同時に、間違っているような気がしてならなかった。
何かを、多分自分は、見誤っている。それは少女にと言うよりは、どちらかと言えば、自分の中にあるもののように思えた。
けれど、形として掴めない。
酷い焦燥感が襲う中、視界の少女が通話を終えたのだろう、手にした携帯を下ろしてこちらを振り向くと、にっこりと自分に笑いかけた。
「キラが呼んでるから、今日はこれで帰るな」
まるで、なにもなかったかのようなカガリの振る舞いにアスランは狼狽える。
そんなはずは、ないのに。
「あ、ああ……じゃあ、玄関まで送るよ」
「うん、ありがとう」
玄関まで送る合間にも、カガリは笑顔だった。
その笑みが、何故だか苦しくて堪らなかった。
「じゃあな、アスラン」
「カガリ、あの……」
「ん?」
何かを言わなければと。
そう思うのに、大人びた顔で微笑むカガリに何を言えば良いのか分からなかった。
「いや……また、おいで」
いつでも、自分の元へ。
どうか、変わらずに。
結局、何も言葉が浮かばないままそれだけ告げれば、その瞬間、カガリは柔らかに瞳を細めた。
ふわりと、風に揺られて花びらが舞うような、綺麗な笑みで。
「ありがとう」
その笑みに安堵したのは刹那的で、酷く不安になった。
それは、消失感によく似た、一抹の不安。
「………カガリ?」
「ばいばい、アスラン」
「─────」
何かを言う前に、カガリは笑みだけ残して扉を閉じた。
この瞬間でさえ、アスランは気付けなかった。
この期に及んでも、気付くことが出来なかった。
ずっと、妹のような、そんな存在だと思っていたから。
──否、違う。
もしかすると、言い聞かせていたのかもしれない。
兄のように慕ってくれる少女に、そうでありたいと。
たとえばもしも、この感情の名前を正確に理解していたら。
たとえばもしも、自分の中にある戒めに気づいていたら。
たとえばもしも、もっと早くに向き合っていたら。
何よりも大切だと、誰よりも優先したいと、そこまで自覚していながら、どうして。
自分にとっての一番は、いつだって変わらなかった。
一番は、いつだって、君だった。
せめてこの時、感情の名前さえ誤たずに分かっていれば。
end