本編沿い

□『for you』
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机上に積み上げられた書類に目を通し、サインを書き込み印を捺す。処理済みとなった書類をとんとんと軽く束ねて左端に積んだ山へと加えると、再び山積みの書類に手を伸ばす。
急ぎの案件はひとまずこちらで最後のようだった。
添付された数枚の報告書に目を通し、一枚目を捲った。
記載された文字を目で追いながら、机の右端に置かれたままであったカップに手を伸ばし、温くなったコーヒーで渇いた口内を潤すように一口含み、ソーサーへとカップを戻す。
カチャ、と陶器の擦れる小さな音が執務室に響いた。

「淹れ直しましょうか?」

すっかり冷えきってしまったそれに気付いた秘書官が、控えめに声を掛けてきた。
カガリは顔を上げて、秘書官に向けて首を振る。

「いや、大丈夫だ」

ありがとう。そう言って笑みを浮かべて、今しがたサインし終えたばかりの急ぎの書類を束にまとめて一息つく。
秘書官は短く返事を返し、決裁済みの書類をカガリから受け取ると一礼を残して退室した。
一人となった室内で、カガリはカレンダーをじっと見つめる。脳裏に思い描いた姿を消さないまま、今度は時計へと視線を移して瞳を薄く細めた。

早く、終わらせなくては。

カガリは再び書類を手に取り黙々と執務を再開する。
同じサインを繰り返し記入し、案件ごとに書類を分けては一纏めに。

そうして積まれた山が残り僅かとなった頃合い。
不意にノックの音がカガリの耳に小さく届いた。
顔を上げたカガリはドアを見つめて続く声を待つ。
不自然な間。カガリが怪訝に首を傾げた時、ようやくドアの向こう側から躊躇いがちな声がかかった。

「……アスハ代表」

それは聞き慣れた、声。
小さく目を見張ったカガリは音を立てて席を立ち、返事を返さないまま足早に駆けつけると急いでドアを開けた。
開けばやはり、想像した通りの人物で。
彼はいきなり開かれたドアに驚いたように翡翠の瞳を僅かに瞠目させて、カガリのことを見つめている。

常とは、違う雰囲気。

どこか陰のある瞳は揺れているようにカガリには見えた。
その瞳をじっと見つめて、カガリは薄く口を開くものの、音にしないまま唇を閉じる。
今はまだ執務中だ。
彼もカガリをそう呼んだのだから、カガリもまた彼のことを肩書きで呼ぶべきだろう。

けれど。

カガリはそのまま彼の腕を掴み、部屋の中に引き込んだ。
え、と驚く彼に構わず、素早くドアを閉め鍵をかける。

「代表?」

戸惑いを見せる彼に、カガリはようやく口を開いた。

「アスラン」

びくりと、彼の肩が揺れた。
酷く弱りきった彼の表情が少しだけ泣きそうに歪む。

「先を越されてしまったけど、私もな、お前の元に行こうと思ってたんだ」

「───…っ」

「ごめん。もっと早くに行けば良かった」

そっと、軍服の袖越しに掴んでいた彼の腕から手を伝わせ、むき出しの手のひらへと躊躇いなく触れるとカガリは両手で包み込むように握りしめた。
ふるりと弱く首を振って否定の意を示す彼に、安心させるように笑みを落とす。

「我慢するな」

心許なくゆらゆらと揺れ動く瞳がカガリを映す。
くしゃりと、端整な顔が儚く歪んだ。

「………カガ、リ」

「大丈夫、なんかじゃないだろう?無理しなくていいから」

唇をぎゅっと引き結んだ彼を見上げて、カガリは右手を伸ばして慈しむように頬に触れた。
剥がれかけた最後の仮面を外すように優しく撫で、愛しさを込めて名を乗せる。

「アスラン」

「…っ……」

声にならない声を漏らした彼が、カガリにすがるように強く強く掻き抱いた。
肩口に顔を埋め、力強く腕を回してくる彼にカガリも応えるように腕を伸ばして広い背中を抱き締める。
求めてくれる彼に、声なき声で何度もカガリの名を呼ぶ彼に、カガリも愛しい彼の名を優しく音にして紡ぐ。受け止めたい、受け止めさせて欲しい。感情を押し殺してしまいがちな彼を、カガリの全てで。
震える背を幾度も撫で、温もりを分け与える。冷えきった彼の体が、心が、少しでも温かくなるように、癒えるように。

今はただ、彼のことだけを。




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