書庫(長編)

□其ノ壱
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外は夜の帳が降りて静寂が支配している。そんな中、奉行所内の天井で一組の男女が下の様子を窺う。ここへ至るまでに十分な下調べをした。あとは実行するだけである。


「では、行くぞ。覚悟は決めたか?」


男に問われた女は無言で頷いた。女は少女と言ってもおかしくないほどに若い。男は懐から鈴を取り出すと、真下へ向かってそれを落とした。チリンチリン、鈴は下へ落ちるとコロコロ転がっていく。障子の開く音がした。不審に思ったのか、男は鈴が鳴る方向を見回した。

その後ろへ音もなく、男女は下へ舞い降りる。男はそれに気付くことはなかった。女は小太刀を手にして、男の首筋に刃を当てる。女は小太刀を突き立てた。小太刀はしばらく男の首筋に止まり、女がそれを引き抜くと、首からおびただしいほどの鮮血が噴き出した。

男はようやく気付いたが、どうしようもない。首筋に手を当てて、出血を抑えようとするが間に合わない。やがて、男は前に崩れ落ちる。


「た、たま、たまきぃ。がっ、は、あああ、うっ、あや、あやとぉ」


男は前へと這っていく。生きたいという強い意志が男に力をもたらしているかのようだった。これを少し後ろで見ていた男は、女に向かって言い放つ。


「月詠、止めを刺せ」

「師匠、教えのとおり、首の動脈に突き立てました。もはや助からぬはず」

「ムダに生きさせれば、無用な痕跡が残ってしまう。一切の痕跡を残さず、事を成し遂げる。さあ、早く止めを刺せ」


月詠と呼ばれた女は、這っている男に向けて小太刀を向ける。男はうわ言のように何度も同じ言葉を言い続ける。月詠はこれを遮るように小太刀を突き立てた。ピクッピクッと動いたのち、男は息絶えた。


「どうだ、月詠。初めて人を殺した感想は。これは通らねばならぬ道。これを通らずして吉原を守ることなど出来ぬからな」


月詠は振り返ることなく言葉を返した。


「どうということもなく」

「多少手間取りはしたが、まずまずだったな。次は一太刀で仕留めるんだ。いいな、月詠」

「はい、師匠」

「行くぞ。ここに長居は無用だ」


男は上へと飛び移った。しばし、月詠は男の死に様を見ていた。生きようと死の際までもがいていた生への執着を垣間見た。その顔は苦悶の表情に満ちていた。それは月詠の脳髄にしっかりと刻み込まれた。男に促され、月詠は上へと飛び移った。


「はっ、これは。何故、このような昔の事を夢に見るんじゃろう。」


月詠は目を覚ました。最近は同じような夢を見るようになった。それは初めて月詠が人を殺した夜の出来事。あの時の記憶は、はっきりと月詠の頭に残っている。師匠である地雷亜から武術の手ほどきを受け、それを完成させるための実践。それがあの殺しだった。吉原を守るために、自分は強くならないといけない。だからこそ、強くしてくれる地雷亜に従い、盲目的に彼の後を付いていった。


「あの時のことを今になってなぜ?しかも、最近になってよく見るのはなぜじゃ。何か嫌なことが起こらねばよいが」
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