□五月の風にゆれる
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夜の9時に仕事が終わった。


「冷たいビールを奢ってやろう」


偉ぶってあんたの肩を叩いたら、あんたは「ああ」と笑った。あんたの目じりに薄い皺が走って、くしゃっとした笑みになった。
その笑顔にあてられて、俺はかるいめまいを起こす。まだ一口も飲んでないのに、随分飲んだ後、みたいだ。

車を置いて、屯所から一番近い居酒屋に入った。
ほどよく混みあう店内をぬって、テーブル席に腰かけた。
早々に運ばれてきたビールジョッキを鳴らす。


「おめでと」


「ああ」


すこし俯いて、はにかむように笑うあんたを前に、俺の喉がいつもより多めに音を立てる。ビールはぐびぐびと喉を通り、勢いよく俺の中に流れ込んでいく。

あんたが笑うと、体から気持ちが溢れ出そうになる。好きとか愛してるとかって絶叫しそうになる。あんたの体をちぎれるくらい抱き締めたくなる。そういうのを堪えるために体に力が入ってしまい、俺の所作はいちいちぎこちない。


「疲れたな」


適当なつまみを注文し終えたあんたが、品書きを立てかけながら言う。俺はうんと頷く。


「お前、他に食いたいもんあった?」


「いや、とくに。あんたが頼んだもん、だいたい俺の好物だったし」


と、そこまで言って、今日くらいは俺があんたに好きなものとか、食べたいものとかを聞いて注文するべきだったな、と思う。溢れ出そうな感情を抑えるのに必死になってる場合じゃない。今日はあんたの特別な日なのだ。あんたがこの世に誕生した日なのだ。俺はその日を、一番近い場所で祝えるのだ。それって、ものすごく幸せなことだ。


「あんたは食いたいもん頼んだの?」


「あ? ああ」


一瞬、不思議そうな顔で俺を見たあんたには、俺の心のうちが見えてしまったかもしれない。見えた上で、気付かないふりをしてくれているのかもしれない。そのことを隠すために、あんたは今煙草に手をやったのかもしれない。

カチッという着火音。


「好き」


「あ?」


「あんたが好き」


このまま言わずに、自分の中からあふれ出ないようにおさまえておくには、手に余る気持ちだったから。いっそ外に出してしまえと思ったのだ。

あんたの長い指が、火をつけ損ねた煙草を灰皿にそっと置いた。

ちょうどその時、俺たちの前に、あんたが頼んだつまみ類が運ばれてきた。それらは二人掛けの狭いテーブルに所狭しと並べられた。
あんたはその中から卵焼きを素手にとると、俺の口元にかざした。ほとんど反射的に噛みついたその味は、ほんのり甘くて、出汁がきいていて、温かかった。
もぐもぐと咀嚼する俺を眺めながら、あんたは「俺も」と言った。にやついた口元を隠すことなく、はっきりとした口調で。

俺は、自分の体から余計な力や思慮が抜けていくのを感じる。それを抜き取ったのがあんただということがわかる。俺がわかったのだから、きっとあんただってわかっているんだろう。


「今日はいい酒を飲もう」


俺は勇んで言った。


「どうせ俺の財布で払うんだろ」


呆れた口ぶりだったけど、あんたの眼はやっぱり笑っていた。




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