01/13の日記

16:36
思春期
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サイトを覚えてからは、メル友と遊ぶ時は必ずと言っていぃ程酒を飲んだり、門限を過ぎても何かと理由付けして、門限を過ぎてから帰路に着く事も多々有りました。
 
そして、ある日、いつものように、メル友と夜まで遊び、帰ろうとケータイを開いた時に、着信が10件以上入っている事に気付き、着歴を見ると、全て父のケータイからでした、最初は心配した母が、父に気付かれないように、ケータイから掛けて来たのだと思い、直ぐにかけ直しました。すると、いつもは9時頃には寝ている父が珍しく起きていたらしく、電話口からは激怒した父の声が響いて来ました。
 
直ぐに電話で口論となり、父は途中で電話を切り、私はメル友に急いで家まで送って貰いました。
そして、帰宅し、すぐに両親の部屋に呼ばれ、門限過ぎまで何をしていた?と厳しく追求されました、そして、適当に答え、父に土下座して謝れと言われた事に耐えられず、部屋を飛び出し、飛び出し際に父に罵声を浴びせ、それが原因で初めて父と殴り合いのケンカをして、母と兄が間に入り引き離され私は自室に戻り、すぐにさっき遊んで居たメル友に連絡し、家出するから近くの駅まで迎えに来てくれと頼み、家を飛び出そうとして玄関に行くと、兄に羽交い締めにされ、家出を阻止され、たまたま玄関に有った小刀を手に取り、兄と母に脅しながら小刀を向け、怯んだ隙に靴を履き、父も騒ぎを聞きつけ飛び出して来た為3人に刃物を向けたまま私は家を出て、その日初めて逢ったメル友の家に2日間泊めて貰い、頭を冷やしてから帰宅し、家族に謝罪しました。それからは、私の力がかなり強かった為、父は私をあまり怒らせないようになり、母ゃ兄もまた、私がまたいつキレるのでは無いかと、腫れ物に触るような時期が続きました。

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12:15
幼い頃の私と父(2)
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確かに母が言うように、調子のいぃ時は、父は優しく、家族思いな人です。
 
ですが私の記憶には、優しい父ょり、いつも母を怒ってばかりの父の方が強く印象に残って居た為、自分の中で父を拒絶して反発する事も多々有りました。ですが、兄は全く反発する事なく、反抗期もなく、父の言う事を聞きいつも親の敷いたレールの上を歩いて居ました。
 
私が中学に上がる頃には父の病状も薬の副作用等も落ち着き安定する日々が続く事も多くなりましたが、やはり時々は悪くなる時も有り、その悪くなるスイッチを押してしまうのは、常に父に反発して居た私でした。
 
反抗期を迎えるのが早かった私は、しょっちゅう父の地雷を踏んでは母に迷惑を掛けて居ました。
 
中学になってからは、家業の縫製業を私も手伝う事が多くなり、休日などは母と2人きりでミシンを踏みながら色々な話をして、母は時々、弱音を吐く事も有りました。
いつも天真爛漫な母が父の話をしていて、涙ぐみながら「お母さんは、病気のお父さんを見てて辛い…言いたくない言葉をお母さんにぶつけたり、ふるいたくない暴力をふるうお父さんを見てたら可哀相で仕方ない…」 
母は泣きながらそう言って居ました。
それを聞いた時、私は自分の無力さに腹が立ちました。
母を助けてあげなければイケないのに、いつも父を怒らせて、母を苦しめて…と、そう思うと同時に、また父への憎しみが増すばかりでした、父さえ居なければ…何度となく父を殺そうと考えたりもしました。
 
けど結局は子供の考える事…行動に移す事など出来ず、ただただ、歯を食いしばって耐えるしか有りませんでした。
 
母は「お父さんの病気は、見た目には分からない病気やから、他人には分かって貰えないねん、だから、家族が理解して支えてあげなければ良くならないんゃで」と時々私に話してくれました。
 
それでも私の父に対する反発心は変わる事は有りませんでした。
そんな生活が中学卒業まで続きました。

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11:55
幼い頃の私と父
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私がまだ小学校中学年の頃、父はあまり調子が良くなく、とん服を飲む毎日でした。
 
父は、自分が働く事が出来ず、母に働かせてるという申し訳無さと、働きたいという焦りから、常に苛立って居ました。
 
そんな苛立ちの矛先は、いつも傍で何一つ文句も言わず、父の言う通りに動いて来た母でした。
母のする事、言う事全てが気に入らないといつも怒鳴りちらし、まだ30代半ばだった為体力も有った為、ヒドいときは、暴力をふるったり、刃物を持ち出し、自害する等と騒いだりしては、母を困らせて居ました。
 
まだ小さく力も無かった私は、ただただ父と母の傍を常に離れず母に危険が及ばないかと泣きながら、見ている事しか出来ませんでした。
 
兄は自分の殻に閉じこもりがちだった為、食事等以外はよっぽどの事が無い限り、父が母に怒鳴りちらして居ても、部屋から出て来ませんでした。
 
母はどんなに罵声を浴びせられても、決して父を見放さず、父が望なら、仕事中で有っても家に帰り、酒を買って来いと言われれば買いに行き、パチンコに行くから運転しろと言われれば何も言わずに運転して行き、父の気の済むように動いて居ました。
 
私は幼いながらにそんな母を見て、どぅして離婚しなぃのか、何故実家に帰らないのか、何故父を入院させないのかと常に思って居ました。
 
ですが母は、いつも私と2人になると言って居ました。
「一番辛いのは、お父さんだから、お父さんもあんなヒドい事を言いたくて言ってるんじゃなぃんだょ、あれは病気がさせてる事だから、お父さんは悪くないからお父さんを責めないであげて欲しい。お母さんはあんた達2人っていう子供が居るから、どんなにヒドい事を言われても、耐えられるんゃで。
 
お父さんもホントはあんな風に言いたいんじゃなぃから分かってあげてな。」
 
母は父の調子が悪く荒れては私にそう言って居ました。
 
でも、病気を理解出来なかった私は、父が憎くて仕方有りませんでした、父さえ居なければ…居なくなれば母は幸せになれるのに…ずっとそう思いながら父を恨み続けました。

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01:21
1人暮らし
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18歳で高校に入学し、20歳で卒業しました、高校卒業後は高校時代からして居たバイト先で引き続き働く事にしました。
 
しかし、自宅からバイト先へは片道一時間掛かかり、自宅近くの最寄り駅には一時間に一本しか止まらないという、田舎だった為、ワンマン電車しか交通手段が無く、その電車は、かなり古く、乗って来る人間も変な奴が多く、病気の私には耐え難い苦痛でも有りました。
 
私は、高校を卒業する半年程前から、両親にその事を話して、1人暮らしをすると、押し切りました。
 
その時、母は、私が実家に居る時は、洗濯物などは全て母任せだったのに1人暮らしをして自分で全て出来るのか?と聞かれました。
私は、自分1人で暮らすのだから、汚れる事もほとんどないし、1人だけの空間だから家の事は1人で出来ると押し切りました。
ですが、母はやはり、病状が安定している時は自分で出来るだろうが不安定になった時に洗濯物も出来ず着る物が無くなったらどうするのかと心配していました。
ですが、私は、親から自立したぃ、この家から出たいという思いが強く、何度言われても引きませんでした。
 
そして、ようやく両親が折れて、1人暮らしを了承してくれました。
ですが1人暮らしを許すには一つその条件があると言って来ました、その条件とは、親からの金銭的援助無しに、生活をする事でした。
 
実家の家業は小さな下請けの縫製業だった為、私は最初から親に金銭的援助など受けるつもりは有りませんでした。
その旨を伝え、1人暮らしを了承して貰いました。
 
直ぐに物件を探し、立地条件も職場からわりと近く家賃も安く、いぃ物件が有った為、高校を卒業する年の2月から、親元を離れ、1人暮らしをする事になりました。

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