そういえば、なぜ彼女がここで寝ていたのか肝心なことを聞きそびれてしまった。少し残念に思ったが、すぐにどうでもいいことだと思考から追いやる。
代わりに、また独りに戻ったという認識が、漠然と現実を捉えていた。
祭壇を見上げ続けていたハセヲは、ふいに襲ってきた衝動のまま、鉄柵を叩きつけた。
全ての縁が始まった大聖堂は、三郎と話している間も延々と、同じ旋律だけを繰り返していた。延々と。まるで過去からずっと変わらないものであるかのように。
「…………どうせ、聞こえてるんだろ…」
ク、とハセヲは喉の奥で笑った。
女神はまだ完全には眠っていないことを、ハセヲは確信していた。Auraが『世界』の循環システムそのものなら、神としての力は失っていても、声は聞こえている筈だ。あらゆる場所にいて、総てを把握できている筈だ。
気がつけば、ハセヲは胸に溜まった激情を噴出するように、叫んでいた。
「返せよ!! あいつを返せ!」
彼は、決して感情のないデータではなかった。問えばたどたどしく応じ、最近になって、多少ぎこちなくはあったが笑うことを覚えた。
今のハセヲは、彼の存在なくしては成り得なかったのだ。
「勝手に俺から取り上げるな…あんたが生んだ存在だろうと、好きにしていいなんて道理はねえ!」
変化は、ない。
神々しく祭壇を照らす不変の光はむしろ冷酷なほどで、絶対の静寂に満ちた聖堂内にハセヲの叫びだけが虚しく反響する。
ハセヲはぎり、と奥歯を噛んだ。無視され、拒絶されたことへの怒りが沸いた。自分の願いなど神の前では取るに足らないと、根本的に馬鹿にされたような気がした。
彼が存在した証を、記憶を、想いを踏みにじられた。あまねくたゆたう『世界』、そのものに。
「……だったら…」
低い、押し殺した声を絞り出し、ハセヲは挑むような目で祭壇の上にある空間を睨みつけた。
光が降り注ぐ、溜息が出るほど美しい祭壇の前で。三爪痕が異質な鈍い光を放ち続ける、その場所で。
「俺は、女神を許さない!」
女神がカイトを奪い、消えていったのなら――女神は、"敵"だ。
かつてここで、同じ誓いを立てた。
全てを、取り戻すと。
あれからハセヲは、多くをこの手に掴んだ。昔より量は増し、両手で抱えきれないほどまで溢れても、未だに戻ってこないものは多くある。
けれど。ずっと一緒にいると、決めたのだ。
人間とデータ。リアルとヴァーチャル。物質と情報。世界をつくる法則の絶対的な隔たり。
志乃のときとは違い、彼には肉体がない。目的を持ったプログラム、命のないデータ、消去されればお終いだ。だが、それが何だというのだ。人間だって電気信号で生きている。身体があるかないかの違いなど、どうでもいい。何も生み出さなくても、彼がいてくれるだけで良かったのに。
これがいずれ来る必然の別れだとは思いたくなかった。そうだとしても、まだ早すぎる。まだハセヲはカイトの声を聞いていない。さよならも言わず、勝手に消えるなんて許さない。
――Aura
全ては、あの女神が仕組んだことだ。
一度は手放した剣を、女神は何のために手元に戻したのだろう。理不尽な行為に、目の前が怒りで赤く染まる。
ハセヲは必死に叫び続けた。
「これが運命だってのか? 冗談じゃない、あんたは何もかも投げ出した過去の遺物だろう! 今更しゃしゃり出て来て神様面すんじゃねえ! 俺は信じない。こんな現実、変えてやる!!」
運命なんて安い言葉で片付けるな。目に見えないものを恐れて何になる。自分で決めて、自分の魂で、歩いてやる。
少なくともハセヲはそうしてきた。そう信じてきた。そして、これからも。
オーヴァンが、志乃が、自分にそれを望んだように。
「運命は、女神様の気紛れなんかじゃ決まらねぇんだよ!」
...end