Conan

□恋路の果てを
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吹雪が絶えず吹いている。纏う黒い布が靡くのも気にせず男は立っていた。何をするでもなく、ただ雪原を見ながら立っていた。厳冬期を迎えたこの地は既に積雪1メートルを優に越えている。男の周りを紅い椿と白い椿が争うように咲いていた。時折枝をしならせ積もる雪を落とす椿は、ただ一定に同じ行為を繰り返す。月明かりさえも受けて輝く花弁は、背筋を脅かす程に禍々しく、美しい。






「…何か用か、快斗。オメーが俺を呼ぶなんて珍しいな。態々公衆電報なんざでカモフラージュしなくても伝書でも送りゃ出て来たのに」






吹雪の中からゆっくりと別の男が出て来た。男の纏う純白のマントはこの白銀世界では保護色と成り得る。その男の名は工藤といった。深く沈む雪を踏み締めながら工藤は、男に近付く。寒さに震える指先を持て余す工藤の吐く息は、白い。気温は既に氷点下にまで突入していた。






「…快斗。なぁ、オメーの、名を教えてくれ」






貴族階級の名簿にも名前は無い。そもそも、上の名を知らない。その顔ですらまともに見たことなどただの数度しかない。その状況下で存在を問うことは、至極当然のこととも言えた。工藤は、右袖の下に隠れた貴族の証である印を上から撫でる。この国では、庶民は貴族と口をきくことさえ出来なかった。住む区画も異なる。貴族の権力は絶対的であり、逆らうことは許されない。厳格な身分統制によって分断された社会は、ともすれば壊れそうな、身分差という危うい均衡を上層部の人間が必死に繕っている、そんな状況だった。






男は、それでも黙っていた。見詰める瞳は、そのままに。紅色の椿が、雪上に音も無く落ちた。紅色が周囲に広がってゆく。湯気を出し融解してゆく雪と紅い液体の境界を睨み付けながら、やっと男は口を開いた。ポツリと辺りに融けてゆく小さな言葉の片鱗には厳かなる狂気さえも滲む。






「…殺してしまおうと思ったんだ。どうせ手が届かないのならば、触れられないのならば、許されないのならば、…この手で」






そう言って男は血塗れの右手に掛かる袖を捲った。その手に、貴族の証である印は、無い。紅い血を脇腹から滴らせながら、痛みに歪んだ顔の工藤は、驚きに目を見開いた。






工藤が口を開いた刹那、白い椿が、滴り落ちる血と白雪との狭間に落ちた。純白が、鮮血に染まる。






「あ……オメー…庶民、なのか…?」






信じられないとでもいうように、頭を振り、そのまま膝を折った。抱いた頭を覆う黒い髪には紅い血がこびりつく。サラリと流れる髪に混じり乾いた血によって纏まった1束が色白の頬に掛かった。






「…そうさ。俺は、貴族じゃない。まあ、元はといえば貴族ではあるけれど」






愛おし気に右腕の爛れた部分をなぞる。そこには嘗て工藤と同じく印があった。刻まれた印を、男の父が死んだ8年前、焼かれたのだ。それから一気に男の家は没落した。






「…復讐、か…?」






工藤は荒い呼吸で言う。男はその言葉に首を傾げた。さも不思議だという風に。この場に相応しくない間の抜けた対応に工藤の眉が寄る。その間にも、流れる血は止まらない。






残酷で無表情なその瞳のままで、握った銀のナイフを振り下ろす。紅色の椿の花弁が二つに裂けた。






「…復讐?ああ…少し意味が違うな。俺はお前を憎んでいた訳ではないし。寧ろ愛していたんだけれど」





俺は、お前を、愛していたんだよ。






そう諭すようにゆっくりと囁いて、男は工藤の唇をなぞった。自らの指先に付着した工藤の血を舐める。目を見開いた工藤は、再び血を吐いた後、高らかに笑った。






「…逃げた…のに。オメーと、なら…」






呟いた工藤は、跪いた男の頬に震える手を伸ばす。男は、工藤の青い目を見まいとその目を逸らす。伸ばした手が男に届いた瞬間、工藤の呼吸は、止まった。






椿の花弁が降り頻る雪に埋もれてゆく。存在を隠してゆく。まるでそこには存在しなかったかのように消えてゆく。春には何事も無かったかの如くその広大な大地に還るのだろう。何ということもない、自然の摂理として。






「…嘘吐くなよ。お前は、逃げることなど出来なかったんだから。最期に視た幻だろ、それは」






力無く伸ばされた手を取り、恭しく手の甲に口付ける。既にその目は虚ろで、覇気などどこにも見当たらない。寒さに震える唇は青白く、死の香さえ漂うかの如くだ。銀のナイフは自然、男の胸元へと宛がわれる。もうその行為は男にとって無意識下の行動でしかなく、機械的な滑らかさで動く腕が男の無力感を物語っていた。儚き恋路の果てまでも。






男の血が椿の花に溢れ落ちた時、その花は白き花弁を紅く染めた。純潔の乙女の堕落を模すその姿。禁忌であるのだと蔑まれようと吐き続けた嘘と、抱き続けた愛は男の全てだった。夢見た幸福は叶わぬものだった。それでも男は夢見ながら世を生きた。男は死の間際に自らを嗤った。自分は、椿に狂ったのだと。あの紅い、紅い椿に犯されたのだと。






紅い椿が散った。紅い紅い椿が散った。春の訪れと共に、儚く短い恋路の幕引き。やがて春には誰もが忘れ、激しく切ない愛だとしても世界は何も変わることなく時を刻もう。そんな、無情な世界は。




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