番外編
□番外編(第1章中)
26ページ/63ページ
エルヴィンの執務室へ向かうと会議のため不在だった。
そりゃそうだ…、私は突然休みをもらっただけで皆は普通に仕事をしているんだったと思い、門番に「ちょっと出かけてくる」と伝えて市街地まで出てきた。
さすがに昼間は人が多いなぁ…、なんて呑気に考えながら市場を歩く。もちろん帽子と眼鏡(ハンジの部屋から勝手に借りてきた)で、髪と瞳は隠している。
こんな状態の時に誰かに絡まれたりしたら最悪だからね。
行き交う人々。声を張り上げてお客を呼び込む屋台のおばちゃん。
活気が溢れたこの雰囲気は地下街にいた頃から嫌いじゃなかった。ここにいる人々が皆生き生きとしていて、こっちまで楽しくなってくる。
リヴァイは地下街にずっといたようだが、私は地上での仕事も多かったのでよく地上に来ることもあった。…その時にたまたま発見されて、あの三人に捕まったんだっけ。
…あの時のリヴァイは怖かったなぁ。今も目つきは怖いけど。
そう考えながら歩いていると、ふと違和感に気づく。何かが足りない。街を歩いているといつも感じている何かがない。
…なんだろう?
足を止めて周りを見渡してみる。しかし、そこに広がっているのは何時もの光景で、なんら変わったところはない。
でも、何かが足りない。
いつも当たり前のように感じている何かがない。
『!』
ふと、屋台と屋台の隙間にある路地からこちらを覗いている男二人と視線が交わった。男は私と視線が合うとそそくさと路地裏に消えていく。
…そうか、”視線”だ。
地上の市場とは言え、ここには悪さを企むものが大勢いる。もちろん地下街の人間も、隙あらば市場に来ている人間の財布を狙おうと身を潜めているだろう。
いつもならそういう輩の視線を感じることができた。路地裏に身を潜めていても、例えすれ違っただけでもすぐに認識できた。
もちろん、東洋人である自分を狙う人間の視線もだ。だからこそ、普段から市場に来てもその視線を避けながら難なく買い物をすることができていた。
[そう言えば体力の低下と一緒に、第六感も鈍くなってるから気をつけてね。]
…あいつのせいだ。
昨日のハンジの言葉を思い出して、再び怒りが湧いてくる。
本当に、ほんっっとうにあいつは余計なことをしてくれる。怒りが湧いてきたと同時に、身体を寒気が駆け抜けた。
今の自分は完璧に無防備な状態。自分を狙う相手がすぐそこまで来ていても気がつくことができない上に、手を出されても抵抗できない。
そう思った瞬間、周りにいる人間全員が敵に思えて不必要に辺りを警戒してしまう。一人で市場を歩く男、恋人同士手を繋ぐ人間や、子供と歩いている母親でさえ警戒してしまう。
ーー…怖い。
久し振りに”怖い”と思った。
恐怖が身体を支配していく感覚が気持ち悪い。
…早く兵団に戻らなきゃ。
「オイ」
『!?』
不意に背後から肩を掴まれ、思わず身体が震える。その手を払うようにバッと振り返れば、そこにいた人物に思わず目を見開いた。
『リヴァイ…?』
払われた手を不機嫌そうに見つめるリヴァイは、眉間に深い皺を刻んでいた。
『…どうしてここに』
「それはこっちの台詞だ。おとなしくしていろと言ったのに、ふらふら出かけやがって」
それは違う。大人しくしていろと言われたから私は訓練にも行かず、ただ買い物をしようと出てきただけだ。
…なんて、そんな言葉は口から出ることはなかった。そんなことより、リヴァイを見た瞬間自分の中に生まれた安堵感に、思わず抱きつきたくなる気持ちをグッと堪えるのに精一杯になる。
本当に怖かった。
もしリヴァイが来てくれなかったら、私は何かに追われる恐怖を抱えたまま全速力で兵団まで戻っていたのだろう。
…本当にどうしてこの人はこう、必要としている時に現れてくれるんだろう。そんなのずるい。
リヴァイはたまたま兵舎に戻った時、私がいないのに気がついて門番に市街地に行ったことを聞き、ここまで来てくれたらしい。
馬鹿な私と違って、リヴァイは私が困惑するであろうことを分かっていたのだ。
「だから、大人しくしていろと言っただろう」
『…買い物くらいなら普通の女の子だってするから大丈夫だと思ったの』
だけど違った。
私は東洋人で、髪と瞳を隠しているとは言えその筋の人間が見ればすぐにバレてしまう。
そう言う輩からはいつも無意識的に避けてきたので気付かなかったが、これも全部今まで自分が生きてきて身につけた勘によるものだ。
それが無くなって初めて、自分がどれだけその勘というものに頼ってきていたのか実感する。
周りの人間が何を考えているのかもわからない。いつ敵意を向けられるか分からない恐怖。自分以外の全ての人間が敵に思えた。
『!』
そう言うと、ぐしゃぐしゃと乱暴に頭を撫でられる。かと思えば、その手はすぐに優しいものに変わった。
「お前がそう思ってると思って、急いでここまで来てやったんだろうが」
『…え』
「それで来てみたらどうだ?案の定お前は怯えきった表情できょろきょろと忙しなく辺りを見渡していて、あれじゃぁお前の方が不審者だ」
『…まったくその通りです』
あれでは狙ってくれと自分から言っているようなものだと額を小突かれ、普段より数倍に感じる痛みに耐える。
今はこんなものなんて全然痛くない。リヴァイが来てくれた。…それだけでこんなにも安心できることに自分でも驚いてしまう。
…どんだけ信用してるんだ私は。と自分に呆れながらも、「行くぞ」と言ったリヴァイが兵舎と反対方向に歩き始めたことに疑問符を浮かべる。
『どこ行くの?兵舎はあっちだよ?』
「んなこと分かってる」
”だったらどうして…?”
リヴァイは訓練を抜け出してきたんでしょ?だから、早く戻らないと。
…そう言うとリヴァイは振り返り、深いため息をついて口を開いた。
「お前は買い物しに来たんだろう?エルヴィンに許可はとってあるからさっさと済ませろ」
『…』
思わぬ言葉に驚いていると「早くしろ」と言われ、慌ててその背中を追いかける。
…これはまさか、一緒に買い物に付き合ってくれるってこと?
様子を伺うように隣を見上げれば、それに気づいたリヴァイがこちらを向き視線が交わる。
「なんだ」
『…リヴァイが買い物に付き合ってくれるなんて珍しいなと思って』
「こんな状態のお前を放って帰っていいのか?」
『…嫌です』
リヴァイは薬で弱っている私が勝手に市場へ来たから仕方なく来てくれているだけ。
それなのに何を浮かれているんだ私は…。
小さな沈黙が落ちる。
これはちょっと怒らせちゃったかもなぁ…、と思っているとリヴァイが不意に足を止めた。
『…リヴァイ?』
「だが、俺達は兵舎にいれば大抵面倒くせぇ仕事が入ってくる。休日が合うこともまず無い。だから、たまにはこうして出掛けるのも悪くないと思っただけだ」
『…!』
その瞬間、市場の騒がしい声が聞こえなくなった。風の音と振り返るリヴァイの存在だけがこの世界にあるような錯覚に陥る。
太陽の光を浴びた彼の髪と、こちらに向けられた鋭い瞳に息を飲む。
「お前は嫌か?」
『そ、んなことない。私もそう思う』
”私も嬉しい。”
そうやって素直に言えない私は言葉を濁してしまったが、リヴァイは「そうか」と小さく笑ってくれた。
**
***
「あらユキちゃん、今日は男連れかい!?」
『そんなんじゃないよ、ただの上司』
「んまぁ、あの人がリヴァイ兵士長?思ったより小さいのねぇ」
もうこの会話を何度しただろう。この市場にはよく来るので屋台のおばちゃん達とは仲がいいのだが、皆が皆揃って後ろにいるリヴァイの事をいじってくる。
リヴァイはこういうやり取りは嫌いなのか、さっきから少し離れたところにいて聞こえていないようで本当に良かった。
「でも珍しいねぇ、いつもはユキちゃん一人か騒がしい女の人と一緒なのに」
『色々事情があって今日だけ特別。この人参とじゃがいもとほうれん草ちょうだい』
「あらそうなの?はいはい、ちょっと待ってね」
騒がしい女の人は言わずもがなハンジの事だ。出かけようとしているところを目撃されると、決まって「私も行くーー!」と無理矢理ついて来る。
だけど今日は特別。もうリヴァイと一緒に買い物するなんて機会はないかもしれない。本当に特別なのだ。
「はいよ、お待たせ」
『ありがとう』
お勘定を払って野菜の入った袋を受け取ると、ズシンと予想以上の重さに思わず『わっ』と声が出てしまったその瞬間、後ろから伸びてきた手が私の手首を掴んで引き上げた。
「何やってる」
『…ごめん』
いつの間に来ていたのか、リヴァイはそれだけ言うと私の手から袋を奪っていった。
「あらあら、目つきはあんなに怖いのに意外と優しいんだねぇ」
『…そうなんですよ』
目付きも口もガラも悪いくせに、本当はこんなに優しい。
屋台のおばちゃんに別れを告げて、スタスタと歩いているリヴァイの背中を追う。
「もうこれで終わりか?」
『うん、大分遅くなっちゃったね』
空を見上げれば少し茜色に染まり始めていた。なんだかんだといろんなお店を周り、最後に野菜を購入し今に至る。
買い物に付き合わせている間もリヴァイは意外にも文句は言わず、一緒についてきてくれた。
たった2、3時間の事だったけどこんなに楽しいと思ったのは初めてかもしれない。このまま帰りたくないなんて我儘は、自分の胸の内にだけ秘めておく。
「お前はよくあんなにべらべらと色んな奴らと話せるな」
『ここの市場は常連だもん。みんないい人達ばっかりだよ』
「そういうものか?そうだとしても、俺は無駄話は好きじゃない」
そうでしょうね。特にあの屋台のおばちゃん達の迫力には圧倒されちゃうもんね。
なんて思いながら、リヴァイの手に下がる袋に視線を落とす。
この買い物自体は薬のせいだとしても、荷物を持ってくれたのはきっと違う。初めは私が持てないから持ってくれたのかと思ったけど、きっとそうじゃなくても同じように持ってくれただろう。
リヴァイは普段から私のことを気遣ってくれていることに、昨日気がつくことができた。
”か弱い女の子になってみたい”
なんて思ったけど、私は今のままで充分幸せだ。幸せすぎる。
他の誰から頼られる立場にあっても、リヴァイだけは私の事を気にかけてくれている。それはただ私が抜けているところがあるからなのか、それともリヴァイから見たら私も他の兵士も弱いことには変わりないからなのかは分からないが。
ハンジには昨日からイライラしっぱなしだったが、今日こうしてリヴァイと買い物できたのもハンジのおかげだ。
悔しいが、少しは感謝してやってもいいかもしれない。
next