垂り雪
□朝食
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「なぁ、これ姉貴大丈夫かな?」
「…大丈夫じゃねぇだろ」
机に突っ伏しながらすやすやと眠っているユキをイザベルとファーランが覗き込む。
彼女の顔は見事なまでに真っ赤に染まっていた。それもそのはず…、彼女の前には空になったボトルが一本置かれ、足元にも転がっている。
「さっきまで普通に話してたもんだから全く気づかなかったな…」
「だって姉貴水みたいに飲んでたぜ?」
「…これ明日の仕事いけるのか?」
まさか酒だったとは…と、二人はお互いに顔を見合わせる。その時、背後でガタリと立ち上がる音が響いた。
「放っておけ、どうせ明日にはケロッとしてる」
もう慣れっこだ、とでも言うようにリヴァイは呆れた表情でユキを見下ろす。
「まぁ、そうだろうけどさ…」
「そうだよな兄貴。だって俺、姉貴が二日酔いになってるところなんて見たことねーもん」
「…と、なると問題は明日の朝飯だけか」
ファーランがそう言ったと同時に空気がガラリと変わる。静かな沈黙と共に三人の間に妙な緊張感が走った。
ゴクリと唾を飲み込む音が聞こえる。
三人の視線が交わった瞬間、クルリとリヴァイの方を向いたファーランが大きく口を開いた。
「じゃーんけーん…!!」
「ちょっと待てよッ!」
「なんだよイザベル」
二人の間に強引に割って入ってきたイザベルに、ファーランは怪訝そうな瞳を向ける。
「どうして俺は入れてくれないんだよ!」
「決まってるだろ?これは明日の朝飯のじゃんけんだからだ。」
「そんなの分かってるよ!どうしてそのじゃんけんに俺を入れてくれないんだ!」
「…イザベル、お前の作った飯は正直まずい」
「んなことねーよ!」
「いや、ある。」
二人の間で始まった喧嘩に、リヴァイは自分に飛び火しないうちにと椅子に腰掛け肘をつく。
テーブルを挟み向かい側に突っ伏して寝ているユキは相変わらずピクリともせずに夢の中。こんなに近くで口喧嘩が繰り広げられているというのに、よく起きないものだと逆に感心すらさせられる。
「ユキは前美味いって言ってくれたぞ!」
「そりゃ卵かけ御飯の話だろ?あんなもん、逆に不味く作れねぇよ」
「うるさいな!今度からファーランの卵は腐ったやつにしてやる!」
「そんなもん食えるわけねーだろうが!」
「いい加減にしろお前ら」
いつまでも続きそうな喧嘩に口を挟めば冷静になったファーランは口を閉じたが、イザベルは「だって兄貴」とリヴァイに助けを求める。
しかし、リヴァイはその視線を無視して立ち上がり、依然として気持ちよさそうに眠るユキを荷物のように肩に担ぎ上げて扉へと向かった。
「…兄貴」
ポツリと呟かれた声に振り返ったリヴァイは小さく舌打ちをし「面倒くせぇな」と言いながら瞳に涙を溜めるイザベルの頭をガシガシと撫でてやる。
「お前が作る飯は悪くないが美味くもねぇ。今度ユキに教わればいいだろう。」
それは撫でるというには少々乱暴だったが、イザベルは満足したように「うん」と頷く。それを確認したリヴァイはユキを担いだまま階段を上っていった。
**
***
階段を上がり、扉を開けてユキをベッドへ下ろせば、白いシーツの上に絹のような黒髪が広がった。
担いだ時に背中に顔が当たった気がしたが、全く起きた様子もないし起きる様子もない…一体どんな神経をしているんだと思うが今に始まったことではなかった。
決して酒に弱いわけではないし、むしろ強すぎる為に飲んでいる時はこちらも気付かないうちにとんでもない量を飲んでいるが、さすがにこいつも人間。
ある一定の範囲を超えると今回のように突然机に突っ伏して寝る。こうなると放っておけば明日は昼まで起きてこない。
さっきのイザベルとファーランの喧嘩を思い出し明日は自分が朝食を作るかと思ったとき、先程まで指先一つ動かなかったユキがもぞもぞと動き始めた。
『…ん』
「起きたのか?」
そう問いかければユキは猫のように手の甲で瞳を擦り、首を傾けてこちらに視線を向ける。
『…リヴァイ』
とろんとした瞳は焦点があっていないように見えるが、どうやら俺と認識できるくらいの機能は保っているらしい。俺に向かって力なく伸ばされる小さな手をとってやれば、ユキはへらりと嬉しそうに笑った。
『…また、運んでくれたんだ』
「俺はお前のおもりじゃねぇんだがな。」
『ごめん』
ユキはのそのそと上半身だけ起き上がり、掴んでいた俺の手を引っ張ってくる。ここからはもう、いつもと同じだ。
『だっこ…。』
「お前な」
『…』
「…しょうがねぇな」
小さく溜息をつき、寂しげな表情で自分を見上げてくるユキの背中に手を回して抱き寄せる。
服の裾を握ってくるユキの頭を撫でてやれば、ユキは再び瞳を閉じ眠りの中へと落ちていった。
**
***
「悪いな、リヴァイ」
「あぁ」
テーブルの上に並べられた朝食に、ファーランは一言礼を言って席につく。既に食べ始めていたイザベルは「遅いぞファーラン」と口をもごもごさせながら言った。
「…お前、口にものを入れながら喋るなよ」
普段であれば食事を作る担当はユキだが、朝ご飯はリヴァイやファーランが作ることが多かったりする。それは言わずもがな、昨晩のようなことが「いつものこと」と認識されるほど日常的に起こるからだ。
ファーランは部屋を見渡しユキが起きてきていないことを確認してスープを口に運ぶ。
あぁ、やっぱり美味いなと思ったとき、昨夜ユキを担いで部屋まで運んでいったリヴァイのことを思い出した。
「そういやリヴァイ、いつもユキを運んでもらって悪いな。今度は俺が運ぶわ」
「いや、いい。」
ファーランは首を傾げる。即答に加えてどこかいつもより口調が強かったように思えた。
「でも、大変だろ?」
「問題ない」
またも即答。面倒事はいち早く避けそうなリヴァイにどうしたんだ?と視線を向けるが、リヴァイはこれ以上触れるなと言わんばかりに表情をピクリとも動かさないので「そっか」と返し、ファーランはそれ以上質問するのをやめた。
[…だっこ。]
昨夜のユキのことを思い出す。
あいつは昔からそうだった。普段は決して誰にも弱みを見せず凛としているくせに、酒を飲んで酔ったときはその面影を無くす。
昨晩のように酔ったユキを運んだ時は大抵ああやって甘えてくる。覚えているのかいないのかは分からないが、次の日になると何事も無かったかのようにけろっとしているのが実に腹立たしい事だが…ファーランにも同じ事をするかもしれないと思うとユキを絶対にファーランには運ばせたくない。あの無防備なユキを、俺以外の人間に見られるのは俺にとっては耐え難い事だった。
ずっと前から想っているとはいえユキは俺のものではないし、俺になんの権利もありはしないことは分かっているが…俺の中に確かにある独占欲と嫉妬心だけは自分でも抑えることができない。
ユキを抱きしめられるのも、近くで体温を感じられるのも、あいつが酔ったその時だけ。その一瞬の時間を誰かに譲ってやる気はさらさらない。例えそれがファーランであってもだ。
…と、リヴァイがそんなことを考えているなど知る由もないファーランは、エプロンを外したリヴァイが扉に向かっていくところを視界の端に捉え、遠慮がちに口を開いた。
「…あまり乱暴にしてやるなよ?」
しかし、リヴァイはそんな言葉まるで聞こえていないかのように無視して階段を上っていく。
むしゃむしゃと朝食にかぶり付いているイザベルとは対照的に、ファーランはこれから彼女に降りかかるであろう災厄を想像して顔を引きつらせた。
ーー…ドゴッ!
直後、上の階から聞こえてくる何かが落ちる音と転がる音。朝食に夢中になっていたイザベルもさすがに顔を上げて「あーぁ」と顔を引きつらせた。
「俺は額だと思う」
「俺は頭。」
こんな風に起きてきたユキがどこにコブを作ってくるのか、と二人で予想するのもいつものこと。
ーー…バタンッ。
まるで何事もなかったかのように部屋に戻ってきたリヴァイの後から、額を抑えたユキがやってくる。イザベルの得意げな表情にファーランは少し悔しそうに睨み返した。
『痛ったー…もうちょっと優しく起こしてよ…』
「優しく起こしても起きねぇだろうが」
『起きる』
「どの口が言ってんだ」
おはよう、という二人にユキはおはようと返す。大丈夫か?と小声で聞いてくるファーランにユキは大丈夫とへらりと笑った。その額はコブとまではいかないものの赤く腫れており、数十秒前の衝撃の大きさを物語っていた。
『あ、美味しそう。これ作ったのリヴァイ?』
「よく分かったな、リヴァイが作ったって」
『お皿の盛り方が綺麗だから』
「…俺の盛り方って汚いのか?」
ショックを受けたように俯くファーランにユキは『違う違う』と弁解する。
『ファーランが普通。リヴァイは神経質さが滲みでてる感じがす…』
ーー…ガシャッ!
という音と共にユキの言葉が遮られた。思わず『うっ!』と声を出してしまったユキが額に叩きつけられた冷たい何かを掴んで見てみれば、それは氷の入った布袋だった。
「そのみっともない額をなんとかしろ」
それを叩きつけた張本人…リヴァイはそう言い放って席に着き、平然と食事を始める。
本当にこの男は優しいんだか冷たいんだか分からない。ユキは頬を膨らませながら冷たいそれを額にあてた。
『リヴァイが叩き落としたからこんなことになったんだけど』
「お前がぐーすか寝てるのが悪い」
「…お前ら朝から元気だな」
朝といっても地上と比べたら遅いほうだろうが、とファーランは心の中で呟く。ここは朝日も入らないし、朝早く起きて仕事に行くということもない。
そういう不規則な生活をしていても誰にも文句は言われないし、それが当たり前とも言える。外へ出れば商人が何人か真面目に働いているだろうが、その他の殆どはどうでもいい時間をすごしているに違いない。
地上の人間が昼間活気よく活動しているときに地下の人間は休み、地上が静かになり始めたときに地下の人間は活気付く。地上と地下では活動時間が逆転している場合が殆どだ。
朝早く起きたところで陽の光を拝めるわけでもないし、夜のほうが色々な仕事がやりやすくなるのだから、こうなるのは当たり前だろう。
ここにいる人間はみんな地下街出身の似た者同士だが、リヴァイは一応”常識”というものを心得ていた。だから、こうして完全に昼夜が逆転することはないが、ユキはリヴァイに叩き直されている真っ最中と言っていい。
前に聞いた噂ではユキは地下街の更に深い部分に身を置いていたと聞く。直接本人から聞いたわけではないし見るからに小柄で華奢なユキは一見そんな世界とは程遠い人間に見えるが、彼女はその噂を裏付けるような確かな実力をもっている。
昔仲間と一緒に二人に喧嘩をふっかけあっという間に返り討ちにされた時は、リヴァイは当然ながらユキも仲間の男たちを圧倒していた。普通の男ではなく、地下街でそれなりに生き抜いてきた男を、…だ。
元々この地下街で大人数で徒党を組むという常識に捉われず、たった二人だけで様々な仕事を完璧にこなすと噂が立っていた二人は正直異質だった。男二人ならいざ知らず、女との二人組でどうして今まで誰にも潰されずにいたのか…。
あの夜、俺は次々と二人に倒されていく仲間を見ながら理解した。
…あぁ、この二人は別格だと。
リヴァイの人間離れした戦闘力に、ユキの洗練された動きはまるで攻める隙がない。互いが互いを護りながら敵を蹴散らす姿に感動すらさせられたことを今でもよく覚えている。
二人がたまたまそういう気分だったのかは分からないが、あの時誰一人として二人に殺されなかったのは今でも奇跡だと思う。二人が本気になれば俺も今ここでのんびりと飯なんか食っていなかっただろう。
リヴァイもユキも一緒に暮らしていて分かったが、やはり生粋のゴロツキだ。簡単に人を殺せるし、それだけの実力ももっている。その力をどうやってつけたのかは、二人がたまに見せる…まるでこの世の全てを悟ってしまったかのような冷たい瞳を見れば何となく理解できた。
恐らくこの二人は俺なんかよりずっといろんなものを見てきたのだろう…だから彼らは強い。俺が知る中でこの二人より強い人間は存在しない。
ユキの噂についてその真意は今でも問えずにいるが…
…まぁ、聞いても仕方のないことだよな。
と、ファーランが小さく息をついたとき「あっ」と思い出したようにイザベルが口を開いた。
「そうだ、聞いてくれよ姉貴。ファーランのやつ俺の作った飯は不味いっていうんだ」
『なんで?おいしかったよ、卵かけご飯』
「あれは作ったって言わねぇだろ?思い出してみろよ、前にイザベルが作ったシチューを」
『…、…まぁ、食べられなくはなかったけど』
「姉貴まで…!」
『ごめんごめん、今度教えてあげるから』
「本当!?」と身体を乗り出すイザベルにユキは『本当』と言って頷く。
「やったー!いつ!?今日!?」
『いいよ』
「気合の入っているところ悪いが、今日はそんな時間はないだろう?」
『大丈夫だよ、夜中だったよね?ファーラン』
「あぁ、夕飯はゆっくり食べてからでも充分間に合う」
「じゃぁ今すぐ買い物いこう!姉貴!」
『ちょっと待って。ご飯食べてから』
そうだった、と再び席についたイザベルは残り少なくなった食事を平らげ、遅れて完食したユキと一緒に出て行った。
「お前が言った通り本当にケロっとしてたな、ユキ。昨日あれだけ飲んでたのに、どうすればあんなに酒に強くなれるのか知りたいよ」
「諦めろ。あいつとお前じゃ元からの身体の作りが違う」
そういうリヴァイも確か酒が強かった気がする。リヴァイとユキが本気で飲み比べしたらどうなるのだろうと考え、ファーランは小さく身体を震わせた。
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