垂り雪
□手を伸ばした先
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雨の勢いは更に増し、速度を上げれば上げるほど遮られる視界の先が見えづらくなる。
目の前で揺れる自由の翼さえも霞んでいた。少しでも離れれば音響弾すら持っていない私たちに合流する術はない。
そんな中、この陣形の中央にいるエルヴィンの元へ行き書類を奪おうと言うのだ。相変わらず私たちは無茶ばかりをする…昔からこんなことばかりだ。
「はぐれるなよ!」
『わかってる!』
「陣形が崩壊してなきゃ次列ニを目印に左前方に進めば中央にぶち当たるはずだ」
とはいえ視界はほぼゼロ。勘を頼りに進むしかないが、未だに次列ニどころかその周辺の班の気配すらない。
相手も馬で走っているから当たり前だがなかなか前列に追いつけない。それとももう追い越してしまったのか、はたまた隊列からはぐれてしまったのか…確認する術はない。
それでも私たちは前進する。このチャンスを逃せばもうニ度と王都で暮らす権利は巡ってこないだろう。これぐらいのリスクは話を受けた時から覚悟していたはずだ。
全身の神経を研ぎ澄ませ、雨音に紛れる巨人の足音と不気味な息遣いに集中する。
すぐ近くに巨人が息を潜めているかもしれない…その姿を現わすのが今でない保証はどこにもない。
『…!!』
足元に視線を落としたとき、泥に沈む深緑色のマントを捉え手綱を引けば、ヒヒィィィイン!と甲高い鳴き声をあげて愛馬が止まる。
その声を聞いたリヴァイも馬を止め「どうした!?」と引き返してきた。
「なにがあった!?」
『…これ、もしかして』
私の視線を追うように瞳を動かしたリヴァイはその光景に息を飲んだ。
決して広くない視界に広がっているのは地面に転がる何頭もの馬と、深緑色のマント…そして巨人に食い散らかされた人間の死体。
「…これは」
『多分、次列ニの班員だと思う』
馬を歩かせ、食い散らかされた死体のうち残っていた頭部を確認すれば次列ニに配置されていた兵士だと辛うじて確認できた。
全ての兵士を完璧に記憶していたわけではないが間違いない…エルヴィンを狙う際に遭遇する可能性を考え、この班の兵士だけは覚えていた。
泥に沈む肢体についた血を雨が静かに洗い流していく。曇天さえ拝めない霧がかった空を、虚空の瞳が静かに見上げていた。
「巨人は4、5体ってところか」
『この雨にこの平地…巨人に遭遇した彼らに為す術はなかったと思う』
行こう。と馬を再び左前方に向ければ、頷き同じように向き直ったリヴァイは再び後ろを振り返った。
『…リヴァイ?どうしたの?』
リヴァイの視線の先…、泥を抉った様に付けられた足跡は私たちが来た方向へと引き返していた。
ドクンと心臓が大きく音を立てる。
全身から血の気が引いていく。
…嘘でしょ?…そっちには…
ーー…イザベルとファーランが、
「…あいつら!…クソッ、引き返すぞ!ユキ!!」
急げッ!という掛け声と共に駆け出したリヴァイの後を追う。
どうして気づかなかった!?この巨人と私たちはすれ違っていたはずなのに…あの数の巨人に襲われたらひとたまりもない。
[私たち2人ならきっと護れる]
…私は馬鹿だ。
リヴァイは初めから調査兵団に入ることを良しとはしていなかったのに、私が無理矢理納得させてここまで引き摺り込んだ。
2人なら護っていけると、ありもしない自分の力に自惚れて過信して…その結果がこれか?
目先の光に囚われ、共に過ごそうと誓い合った最も大切な仲間を危険に晒し、絶望的な状況に立たされている。
本当に大切にしなければいけなかったものを私は分かっていなかった。
ファーランの希望もイザベルの夢もあのとき止めるべきだった。例えそれが叶わなくとも4人で暮らしていけることの方がよっぽど大切だったのに。
後悔ばかりが思考を奪い、
不安ばかりが胸を締め付ける。
全速力で駆け続け上がる息も、どこから現れるか分からない巨人に襲われる恐怖も今は全く感じない。
あるのはただ生きていてくれと願う、私たち2人のちっぽけな願いだけだった。
**
***
ーー…サァァァ
雨脚は弱まり始めていた。
足元を柔く風が吹き抜ける。
広がる霧は風にのりゆらゆらと揺れていた。足元は悪い。馬を降りた2人の靴底はあっという間に泥に埋もれた。
泥に汚れた立体機動装置。伸びきったワイヤーの先に見覚えのある顔…2人が初めに見つけたのはサイラムだった。
瞳はそれぞれ別の方向を向き、下半身が失われた身体からは溢れる血液と共に蒸気が登っている。
彼だけではない。あたりを見ればそこかしこから霧とは違う蒸気が細く上がっていた。
食い千切られた腕、足。辺りに広がる人体の一部は誰のものだったのか…もう見当もつかない。
地面に倒れていた馬はそれぞれ時間をかけて起き上がり霧の中へと消えていく。その中でリヴァイとユキは立ち尽くしていた。
自分たちの班が巨人に襲われたのだということは口にするまでもなかった。その事実をサイラムの死体が静かに語っている。
ドシャ…と、泥水が跳ねる音。地面に膝をついたユキの手から刃が滑り落ち、リヴァイはただ眼前に広がる光景に視線を落とす。
サイラムの他に転がる死体は3体。食い千切られているが、体格からして男2人と小柄な少女。
助けを求めるように伸ばされた手の先には刃先の折れたブレードが地面に垂直に突き刺さっている。曇天の空の下、それは鈍い光を灯していた。
ーー…ドシンッ
巨人の足音が大地を揺らす。ゆっくりと瞳を上げたリヴァイの視線の先に4体の巨人が迫っていた。
一歩踏み出したリヴァイを捉えようと、先頭で駆け込んできた巨人が腕を薙ぎ払った。その初撃を額にアンカーを刺し、飛び上がるように躱したリヴァイはそのまま二本の刃で瞳を貫く。
続けて悲痛な叫びを上げる巨人を足場に2体の巨人の項を削いだ。振り返れば、膝をついたままピクリとも動かないユキに向かって巨人が手を伸ばしている。
アンカーを射出し、ユキに向かって伸ばされた巨大な手指を斬り払い、腕を駆け上がったリヴァイはその項を削ぎ落した。
吹き上がる血飛沫。切り取られた肉塊が宙を舞い、項を削がれた巨体は蒸気を上げ…膝から崩れ落ちるように地面に倒れこむ。
やがてそれらはあるべき形を失っていき骨格を露わにさせた。熱を持っているのか、降り注ぐ雨粒は触れると同時に気化していく。
「オイ、人間てのは美味いのか?」
瞳に刺さる刃に叫びを上げる巨人…リヴァイはその項にアンカーを刺して飛び上がる。
その瞳に光はなく、雨に濡れた前髪から覗く表情はなんの感情も写していない。妙に落ち着いた声と滑らかな動きが不自然なほど馴染んでおり、より不気味さを醸し出す。
「なぁ、美味かったか?」
しかし、問いかけるも返ってくるのは叫びだけ。
「答えろよ」
叫びが消えたのは一瞬だった。振り下ろされた刃が項を削ぐと同時に倒れる巨体。そこから立ち込める蒸気に目もくれず、リヴァイはユキの方へ歩みを進めた。
刃溢れしたブレードを地面に捨てる。雨に濡れ、水分を含んだ団服が肌にまとわりつきリヴァイの足取りを更に重くさせた。
足元に転がる仲間の死体に視線を落としたままのユキは動かない。瞳を上げ、リヴァイは空を見上げる。
酷い空だ。今にも落ちてきそうなほど重い雲が覆い尽くし、そこから降り注ぐ雨水が頬を伝う。
…数十分前まで共に過ごしていた彼らは頭部を失い言葉を紡ぐこともできず、肢体を奪われ二度と立つこともない。
イザベルとファーランが死んだ。
ただ、その事実だけが静かに胸に落ちる。
虚無感や喪失感、それらを感じられることもなくただただ空を見上げていた。頭が回らない。
ーー…ドドッ!
静寂を破ったのは馬を駆ける音だった。
「誰か生存者はいるか!?」
響き渡る声に重々しく動かされたリヴァイの瞳が駆けつけるエルヴィンとその部下等を捉える。
「リヴァイ!ユキ!…生き残ったのはお前たちだけか?」
エルヴィンは周囲を見渡す。死体と膝をつき動かないユキ…蒸気を上げる巨人の側に立ち尽くすリヴァイ。
状況を理解するのに時間はかからなかった。
「この巨人の死骸は、…お前一人で」
地を蹴り上げ、騎乗するエルヴィンに突っ込んだリヴァイは勢いそのままエルヴィンを地面に叩きつけた。
泥水が跳ね、地面を転がる上司にミケは素早く馬を降りブレードを構える。…しかし、背後から首元に押し当てられた刃に動くことができず動きを止める。
足元を這うような殺気に、振り返らずともそこに誰が立っているのか理解したミケはゆっくりと刀を下ろす。一歩でも動けばユキの刃に首を飛ばされるのは目に見えていた。
「…ぐっ」
「エルヴィン。てめぇを殺す、そのためにここにいる。」
痛みを堪えながら起き上がるエルヴィンの首に刃が押し当てられる。見上げた先には刃を構え見下ろすリヴァイ。
「…彼らは、死んだのか。…そうか」
いつかのときと逆転する立場。視線を落とし一言呟いたエルヴィンは胸元から一通の文書を取り出した。
「ニコラス・ロヴォフに関する書類だ」
「…。…てめぇ、知っていたのか」
それは、どうしても手に入れたかった書類。命を危険に晒してでも手に入れたかった夢。
「残念だが遅かったな」
しかし、地面に落とされたそれらに文章はなくただの白紙のみ。
エルヴィンは初めから何もかもを見通していた。壁外調査の中止で浮いた兵団資金で横領を行っていたロヴォフを追い詰めるため、嘘の情報を流し相手に行動を起こさせたこと。
案の定、その対策としてリヴァイ達に自分の持つ文書を奪えと依頼していたことまで知っていて調査兵団に招き入れたと語った。
「…そこまで知っていて、なぜ俺たちを兵団へ入れた?」
「一つはお前達が優れた戦力だからだ。もう一つは取引相手のお前達を利用してロヴォフに揺さぶりをかけるため…だがもう必要ない。本物の書類は今頃ザックレー総統の手元にある。ロヴォフはもう終わりだ。」
[こりゃデカいチャンスだぜ!!]
「…アイツら」
初めから王都で暮らせる未来はなかったというのか。あれだけ瞳を輝かせ、王都で暮らす未来に想いを馳せていた彼らの夢も、希望も、初めから叶わなかったというのか。
自分が選択を間違えたばかりに二人を失った。その事実だけが静かに胸に落ちる。
「命捨てるのに割りにあわねぇ…くだらない駆け引きに巻き込まれたもんだ。てめぇもな」
リヴァイが刃を振り払うと同時に赤黒い液体が飛び散った。液体は宙に弧を描き地に軌線を刻む。しかし、エルヴィンは自らの手で刃を受け止めていた。
「くだらない駆け引き?私の部下を、お前の仲間を殺したのは誰だ?私か?お前か?共に私を襲いに来ていれば二人は死なずに済んだと思うか?」
あの時、あいつらも連れて行けば…ファーランの言う通り霧が晴れるのを待っていれば。
王都で暮らす…それは本当に全員の命をかけなければいけないほど重要なことだったのか?残された2人を巨人の脅威に晒してでも手に入れなければいけないことだったのか?
リスクを背負うのは自分たちだけだと勝手に勘違いしていた。仲間を護りたいと…決断した結果が間違っていた。
「…そうだ、俺の驕りが…俺のクソみてぇなプライドが…」
「違う!巨人だ!!巨人はどこから来た?何のために存在している?何故人間を食う?分からない。我々は無知だ」
エルヴィンの手から滴る血が、力強く握られたブレードを伝っていく。それでも彼の強い意思のこもった瞳は真っ直ぐにリヴァイに向けられていた。
「無知でいる限り巨人に食われる、壁の中にいるだけではこの劣勢は覆せない。周りを見ろ…どこまで走っても壁のないこの広大な空間に我々の絶望を照らす何かがあるかもしれない」
だが、壁を越えるのを阻む人間がいる。奴らは危険の及ばない場所で自分の損得を考えるのに血眼になっている。
しかしそれも無理もない。100年もの間壁に阻まれ曇ってしまった人類の眼には向こう側の景色が見えていないのだとエルヴィンは続けた。
「お前はどうだリヴァイ。お前の眼は曇ったままか?彼女と共に私たちを殺し、暗い地下に逆戻りか?」
エルヴィンの瞳がリヴァイを貫く。力強い声は広がる草原に響き渡った。
「私たちは壁の外へ出るのを諦めない。調査兵団で戦え!お前達の能力は人類にとって必要だ!」
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