垂り雪

□蒼空
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壁の中から見上げる空は広いと思っていた。…当然だ、自分たちは地下の天井にある僅かな隙間から覗く空が当たり前だったのだから。

しかし、その常識は壁の外に出た瞬間全て崩れ去った。


一面に広がる草原。
どこまでも続く青い空。

それを阻む壁はどこにもない。先の見えない広大すぎる光景に、息を飲んだことは今でも鮮明に覚えている。

吹き抜ける風も、辺りを包み込む空気も全てが違った。壁の中で感じるものがそこには何一つない。

例え巨人が蔓延る地獄のような世界でも、世界はこんなにも美しいものなんだと思い知らされた。…その瞬間を俺たちは全員で共有した。


…このままこいつ等を殺して地下に戻れば、ユキと共に以前と同じように暮らすだろう。太陽の光も当たらない空間だが生きていくことはできる。実際、俺たちはそうして生きてきた。

そうしたら最後…俺たちは壁の外で感じた全てのこともあいつらと共に過ごした時間も忘れるだろう。全てをなかったことにして世界はこういうものだと、…始めから救いのない残酷な世界なんだと言い聞かせて生きていくだろう。

世の中の暗い部分ばかりを見てきた俺たちの身体は自然と自己防衛を図るためにそれができる。

だが、それはどうしたって許されない。自らの過ちを背負い、歯を食いしばりながら生きていかなければならない…それがあいつらを護れず死なせてしまった俺たちの定めだ。


「…こっからは取引じゃねぇぞ」


そう告げてエルヴィンの横をすり抜ければユキに刃を突きつけられていたその部下も歩みを進めた。

標的を無くしたユキの刃がゆっくりと降ろされる。いつの間にか雨は止み、霧も晴れていた。重苦しい雲の隙間からは僅かだが太陽の光も覗いている。


「ユキ、行くぞ」


ユキは答えなかった。俯いた彼女から表情を読み取ることはできない。

解けた黒髪から水滴が零れ落ち、ブレードを握る震えた手を伝った。唇を強く噛み締め顎を伝う血液の横を、頬を通ってきた涙がなぞる。


「なぁ、ユキ。このままお前と地下に戻ればきっと俺たちは以前と同じように暮らせると思う。お前もそうだろ?…俺たちはそういう風にできてるからな」


人の死を多く見過ぎてしまった自分たちはそういう世界なんだと諦め、心の奥底に隠すことができる。これまでだってそうしてきた。何事もなかったかのような顔をしていることができる。


「だが、俺はそうするつもりはない。あいつらと出会ったことも共に過ごし、共有した時間も忘れるわけにはいかねぇ。忘れたふりをすることも、俺たちには許されない」


涙で濡れるユキの頬をリヴァイの指先がそっと触れた。

リヴァイの声は震えていた。細くか細く、今にも消え入りそうな声で続けられる。


「この世界を俺たちで変えるんだ。あいつらが夢見た世界を、俺たちには見届ける義務がある」

『…っ』


ユキは自分の頬に触れる手をそっと握った。歯を噛み締め、堪えながらも流れる涙。

ユキは小さな声で『ごめん』と何度も言った。リヴァイはそんな彼女の手に自らの額を寄せ、静かに涙を流す。

あのときリヴァイを説得しなければ。二人で行こうと言わなければ。悔やんでも悔やんでも、一度失ったものを取り戻すことはできない。

二人で護ろうという約束を、
二人は護ることができなかった。

その事実だけが互いの心に深い傷を残す。しかし、ボロボロになりながらもそれを背負い支え合いながら生きていかなければならない。

今度こそ失わないように。
今度こそ護れるようにと抗いながら。

彼らが夢見た世界を見届けるために。


ぎゅっと重ねる手に力を込めたユキは『一緒に戦おう』と言った。「あぁ」とリヴァイは返す。


「兄貴ー!姉貴ーー!」


その瞬間、響き渡る声に2人はピタリと動きを止めた。

馬を駆ける音が近づいてくる。雲の隙間から、太陽の光が差し込んでいる。ゆっくりと視線を上げた2人の瞳は、その姿を捉え大きく見開いた。


「無事だったか2人とも!いやぁ、ヒヤヒヤしたぜ。お前らが死ぬとは思ってなかったけど」

「当たり前だろ!兄貴と姉貴が死ぬわけねぇじゃん!」

「さっきまでピーピー騒いでたくせによく言うぜ」

「うっせぇ!」


馬から降り、ギャーギャーと言い争いを始める2人をリヴァイとユキは呆然と見つめた。


「…お前ら、どうして」

「どうしてって他の隊に合流してたんだよ。あの音響弾はフラゴン分隊長じゃなかったんだ。だからこうして運良く生き残れたっ……ってお前ら…泣いてんのか?」


う、嘘だろ?とよっぽど信じられなかったのか後退りするファーランと同じようにイザベルも目を見開いていた。

リヴァイとユキが揃って涙を流す、…そんな光景を彼らが見たことは当然ない。


「…お前ら、…紛らわしい真似しやがって…」

「なんだよ、俺たちが死んだと思ったのか?お前らに無理やらせといてこっちが先に死ねないだろうが」

「そうだよ!俺たちがどれだけ心配したと…!」

『…そうだよね、ごめん』


ユキは適当に袖で涙を拭うと2人に向かって飛び込んだ。そのまま精一杯伸ばした腕で2人を抱き寄せる。存在を確かめるように腕に力が込められていく。


「姉貴!?」

「オイ、ユキ!?」


その光景にリヴァイの口元には自然と笑みが零れた。

湿気を含んだ風が足元を吹き抜け、水滴を乗せた草花を静かに揺らした。それらは太陽の光を浴びてキラキラと光り出す。


壁から一歩でも外に出ればそこは地獄の世界。巨人が支配する残酷な世界。

それでも壁の中では感じられない様々な感動を宿した未知の領域は、美しさと儚さを持ち合わせている。


雲が流れ青空が覗いた。

それは壁を越えた時と同じ、
息を飲むほど綺麗な青だった。


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