木漏れ日
□勝敗の見えた勝負
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「やり直しだ。」
その一言に場の空気が凍りついたように固まった。
『…あのさ、もう何回もやってるんだけど?何が気に入らないのか知らないけど、私に対する嫌がらせならやめてくれる?』
「その台詞そのままそっくり返してやる。お前はワザとやっているのか?どこに目をつけてるんだお前は」
『はっきり見えてるよ、あんたのその偉そうに見下すムカつく顔も。どこに汚れがあるっていうの?』
「そこの手すりも、壁掛けも何もやってねぇだろうが。よく見ろ馬鹿女」
バチバチと火花が飛び散る様子を遠巻きに見ていた兵士たちは、自分たちに飛び火しないようにとそそくさと退散していく。
暫く言い争いを繰り広げた2人は互いに顔を背け、リヴァイがその場を離れたことで終息した。モップを握りしめるユキは眉間に皺を寄せている。
「あれ、ユキったらまだ掃除させられてたの?」
『うるせぇぇ!!』
ビュオッ!と耳元を何かが掠めたと思い恐る恐る視線を向ければ、ユキが投げたであろうモップの柄が深々と突き刺さっていた。
え、嘘!?これ普通の壁だよね!?どうすればモップが突き刺さるわけ!?
ハンジが呆然と口を開いているのも気にせず、ユキは小さな拳をこれでもかというほど握りしめていた。
壁外調査から帰還後、暫く暇していたユキだったが事後処理を終えた調査兵団は早速動きだした。しかも、その初っ端にリヴァイに掃除をさせられているというわけだ。
どうせ暇してたんだろう、サボっていた分働けと言わんばかりに押し付けられた掃除。しかし、何度やってもリヴァイから出てくるのは「ダメだ」「全然なってねぇ」「やり直し」の繰り返し。
『流石に私も我慢の限界なんだけど!?そりゃぁ暇してたさ!だってやることないし訓練だってする必要ないしぃ!?でもだからってなんで掃除?しかも何であいつに合否決められなきゃいけないわけ!?』
「調査兵団の兵士なら誰もが通る辛い道だからねぇ、こればっかりは逃れられない宿命さ…っていうかこれ抜けるの?抜けるよね?抜けないとまたリヴァイが怒るよ」
ちょいちょいとハンジが壁に突き刺さっているモップを指差せば、ユキは『あの潔癖のことなんか知るかァァ!!』と言いながら片手で軽々と引っこ抜いた。…本当にあの細腕のどこにそこまでの力があるのか未だに信じられない。
ブンブンとモップを振り回すユキからハンジは距離を開ける。大層ご立腹のユキにこれ以上近づけば、気付いた時には首と胴が繋がっていないかもしれないという恐れすら感じたのだ。
『第一、私は戦闘に力を貸すっていったけど、こんな家政婦みたいなことするなんて聞いてないんだけど』
「そうなんだけど、ほら、壁外調査ってそんな毎週行われるようなものじゃないし、ユキなんて立体機動使わないから訓練もしないでしょ?それじゃ暇してる期間が長すぎるってね」
『だからなんでそこで掃除だって言ってんの。始めはそりゃ私だって真面目に取り組んでたさ、一応衣食住の面倒も見てもらってるし?だけど、これ以上どこを掃除しろっていうわけ?あいつには何が見えてるの?私には全く理解できない』
はー、はーと肩で息をするユキは流石に疲れたのか、モップを床につけ息を整え始める。
エプロンに三角巾という珍しい姿にヒソヒソと男兵士が鼻の下を伸ばしながら話をしていたが、そんな彼らも眉間に皺を寄せ殺気を放つ今のユキを見たら驚いて飛び退くだろう。
『…っていうか、なんでハンジも掃除の格好してるの』
「実は私も自分の部屋掃除しろって言われちゃってさ…ユキなら案外早く終わってそうな気がして手伝ってもらおうと思ったんだけど…」
結局ユキも己と同様、未だに合格をもらえない劣等生と知ってしまっては「手伝って」なんて口が裂けても言えない。
『…私は自分の部屋じゃないんだけど。会議室なんだけど。あんたの汚ったない部屋と一緒にしないでくれる?』
「酷いなぁユキは。じゃぁ、お互い合格もらえるように頑張ろうね」
『…あんな潔癖のことなんて知るかよ』
「聞こえてるぞ」
部屋を出て行こうとしたハンジの前に現れたのは、これまたユキと同じくらい不機嫌そうなリヴァイ。
お互いの視線が交わった瞬間、火花が散ったかのような錯覚が見えた。
「どういうつもりだ?さっきから何も変わってないじゃねぇか。お前は満足に掃除もできねぇのか?」
『私は潔癖じゃないからどこが汚いのかわかんないんですぅー、気に入らないなら自分でやれ潔癖』
「いい加減にしろよてめぇ…毎日食っちゃ寝食っちゃ寝しやがって」
『私たち夜兎は何もしなくたってあんたら人間なんかとは違って戦えるんだよ。なんなら試してみるか?あぁ?』
「上等だ、その生意気な口二度ときけなくしてやる」
「もー掃除するんじゃなかったの!?」
**
***
すっかり日も落ちた頃、賑やかな話し声が飛び交う空間でユキとハンジは向かい合って食事をとっていた。
…といってもユキはもう既に食べ終えており、街の食堂に興味深そうに視線を巡らせている。昼間の鬼のような掃除地獄から漸く解放された二人は珍しく兵舎を出て食事をとっていたのだった。
「結局私の部屋も手伝ってもらってごめんねぇ、助かったよ」
『こっちこそ手伝ってもらって助かった。あのまま一人で悩んでても終わらなかっただろうから』
結局、お互いの部屋を協力しながら順番に進めていった二人。足りないところを補い合い、なんとか合格をもらったわけだ。
なんやかんや文句を言いつつもユキは割り当てられた掃除場所を最後までやり遂げた。途中で様子見に来たリヴァイと何度も喧嘩しそうになっていたが。
「でも偉いじゃない。結局最後まで放り投げずにやったんだから」
『やらないと終わらなさそうだったし』
「無理やり襟元掴まれて終わるまで解放されなかっただろうからねぇ。でも偉い偉い。ユキだったら正面からぶつかって勝利だって勝ち取れただろうに」
そう言うとユキは『気分だよ』と言った。あれだけ文句を言いご乱心だった奴のどこに掃除を完遂する気分なんてあったのだろうか。
きっとクソみたいに嫌だったけど、普段世話になっていることと壁外調査が暫く行われず自分の力が発揮できないことを考慮し、無理矢理自分の気持ちを押さえつけながらやったんだろうなと思う。
ここに来た頃は孤高の存在のように孤立していたユキも、少しずつここの環境に合わせてきてくれるようになったということかもしれないとハンジは思った。
「でもさぁ、ユキもこっちの生活に大分慣れてきたんじゃない?始めはよくわからない行動ばっかでお互い困ってたけどさ、最近はあまり隔たりを感じなくなったよ。やっぱりまだ不便?」
『もうそこまで感じないよ。もともと地に足をつけるような生活もしてなかったら、そこまで不便を感じることもない』
ハンジが首を傾げながら問うと、ユキはテーブルにあったナフキンを取り口を拭きながら答える。
「そういえば最近じゃ爆食いもしなくなったね」
ユキの前に置かれた空の食器は普通の量。しかし、それも成人女性にしては多く、体格の良い成人男性くらいではあるが…調査兵団に来て初日の夜は余ったスープを鍋ごとひっくり返すように食べ尽くしたことを考えればかなりセーブしているらしい。
『私は食べられるけど食べないと死ぬわけじゃない、私の種族は基本そんなものだよ。年中無休で爆食いする奴もいるけど』
「ユキがそうじゃなくて助かったよ、壁の中のもの食べ付くされちゃ困るからね」
ははっとハンジが冗談交じりに言ったと同時に背後で歓声が上がった。なんだと振り返ったユキと、首を傾げ覗き込むハンジ。
その視線の先ではこの店の店主と客の一人が腕相撲をしている光景だった。
「また親父の勝ちかよ」
「弱いなぁお前ら!体格は見てくれかぁ?俺を倒せば10人前タダでくれてやるぜ?もちろん負けたら倍の金額を払ってもらうけどな」
けらけらと笑い声が店中に響き渡り、負けたのであろう客の男は悔しそうに店主に金を渡している。恐らく自分が食べた分の倍の料金だろう。
その光景を見ていたユキがくるりとハンジの方を振り返る。…まさか、とハンジが嫌な予感を感じたと同時に『あれやってきていい?』とユキは笑う。予感は的中した。
ハンジは小さくため息をつき、額に手のひらをのせる。もちろんこのため息は2倍の料金を払わなければいけないのか…という落胆からくるものではない。
「手加減してあげてよ?」
『当然』
店主への同情だった。
「おいおい、まさかあんたがやるって言うんじゃないよな?」
『勝ったら食事10人前、嘘はないよね?』
ユキが席に着くと同時に周りの客から歓声が沸き起こる。当然、「やめとけ嬢ちゃん」「普通に飯食って帰ったほうが身のためだぜ!」という野次も飛び交う。
それも当然のことで、店主と向かい合ったユキは相手よりひと回りもふた回りも小さい小柄な少女だ。目付きだけは一人前だが腕相撲は純粋な力比べ。負けるのは目に見えている。
「嘘なんか言わねぇよ、だがさすがにこれじゃこっちも気持ちいいもんじゃないな…」
『こっちが挑んでることなんだから気にしないで。それから、女としてのハンデとして私が勝ったら30人前で』
ユキが不敵に笑ったその数秒後、机に腕が叩きつけられる容赦ない音が響き渡った。
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