あなたがそう言ったから
□無意識
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扉を開ければユキは相変わらず愛想のない顔で猫と戯れていた。少しも笑ってないのにどうしてか、誰にも懐かないと言われている猫は楽しそうにユキが振る猫じゃらしを追いかけ回している。
さっきはおざなりに撫でていただけだったが、よほど猫のほうから強烈なアピールがあったのだろう。仕方ないといった様子で猫じゃらしを振るユキと、それ追いかけ回してはしゃいでいる猫……側から見れば異様な光景だ。
階段の最下段に足をつけば、俺に気づいた猫は勢いよく草むらの中に逃げていった。振り返ったユキは猫と戯れていたときと同じ無表情のまま見上げてくる。
お前のせいで逃げたじゃないかと責められている訳ではなさそうだが、俺の登場を快く思っていないことは充分に伝わってきた。
「班長に随分絞られたらしいな」
『あなたも私を説教しにきたんですか』
「どうにも腑に落ちなくてな、気になって仕事もろくに進まねぇ」
ユキは手持ち無沙汰なのか猫もいないのに猫じゃらしを振り始めた。先日の雨で葉の上にのっていた水が猫じゃらしに揺すられ、さらさらと零れ落ちる。
「単独行動をしたらしいな?逃げたわけじゃなく巨人を引きつけるために」
『逃げようとしたら巨人に追いかけられただけです』
「お前は逃げるために巨人に突っ込んで森の奥に行くのか?急に方向転換したお前に班員はさぞかし驚かされたと思うが」
『あの時は必死だったのでよく覚えていません』
「お前は巨人に恐怖したわけじゃない、絶体絶命の状況に追い込まれたわけでもない、…なのにどうしてあの時あんな馬鹿な真似をしようとした?」
ぽつりと佇む小さな身体。
白い首に添えられたブレード。
あと1秒でも発見が遅れていたら、…声をかけずにいたら…刃はそのままユキの首に沈み、肉を断っていただろう。そうすればこいつは今こんなところで俺と話してはいない。戦死した奴らと同じ、味気のない墓石の下で眠っていたはずだ。
『…』
「命令だと言ったらお前は話すのか」
『…』
口を開く気配すら見せないユキにため息をつく。命令だと言えばさすがに話すと思っていたが…。
ユキは手持ち無沙汰に振っていた猫じゃらしを置いて立ち上がった。遠くを見つめる横顔はどこか寂しげで、触れれば消えてしまうような…そんな気がして無意識に息を飲む。
こいつの雰囲気はやっぱり特異だ。他の人間とは明らかに違う…人として重要な感情や表情といったものがまるで感じられない。
『彼らには帰りを待つ人がいます』
少しの沈黙の後、突然ユキが口を開いた。
『だから簡単に落としていい命じゃない。いくら強い信念があろうが夢があろうが、死んだら全てが終わってしまう。壁内で彼らを待つ人を悲しませたくないと思っただけです』
「だからお前は自分が囮になったのか」
『何度も申し上げましたが、私は自分が囮になったわけでも巨人を倒したわけでもありません。ただ無我夢中に逃げただけです』
「さっきのお前の言い方だと、あいつらのために自分が囮になり巨人を倒した…そう聞こえたが?」
『それはあなたの勝手な解釈でしょう』
「なら、あの時あそこにあった死体は誰がやった?」
『他の兵士が倒したのではないでしょうか』
「あの場に他の兵士はいなかった、お前もそう言っただろう」
『だったらもう撤退していたんでしょう』
「お前の刃が数本しか残っていなかったのはどう説明する」
『誤って折りました』
あまりにも取って付けたような言い訳に呆れて言葉がでない。無言でその横顔に視線を向ければユキはチラリとこちらを見て小さく口を開いた。
『あなたもしつこいですね…そこまで言うのならもうお好きに捉えてくださって結構です。』
ため息をつきながら言われた言葉にカチンときたが、ユキの横顔を見てその気は失せた。黒瞳は寂しそうに細められ、凛とした面影は完全に消えている。
「帰りを待つ人がいるから護った…か。お前を待つ人間もいるだろう」
『どうでしょうか』
「必要とされない人間なんて存在しねぇだろ。少なくとも調査兵団にいる以上、仲間はお前の帰りを願ってる」
どこか遠くを見つめていたユキが視線をこちらにむけ、真っ直ぐに見上げてきた。
黒真珠のような瞳にじっと見つめられ、吸い込まれそうな錯覚に陥る。…なんだ?この感覚。時が止まったように息が詰まるような感覚は、相手が瞳を伏せたことによって余韻を残しながら消えていった。
『そう思うことにします』
耳を澄まさなければ聞こえないほど小さな声。これ以上問い詰めるつもりはないし、そもそも俺がしのごの言えたことでもない。所詮上司と部下だ、…そこまで個人的な私情に首を突っ込んでいいはずもない。
例え本人が自殺しようとしていたところを偶然目にしてしまったとしても。知られたくないから言わない…ここまで頑なに口を閉ざす理由がこいつにはあるのだろう。
自分にだって聞かれたくないことの1つや2つはある。視線を落とすユキの頭を俺は無意識に撫でていた。何がそうさせたのかはわからないが、なんとなく放っておかない気がした。ユキは少し驚いたように目を開いている。
「早く飯食って寝ろ、クソガキ」
『…説教、…しにきたんじゃないんですか』
「して欲しかったのか」
『そういうわけではありませんが…』
「お前を見てたらその気も失せただけだ。俺もこれ以上は何も聞かない、だがこれだけは覚えておけ。…生きろ。何があっても最後まで戦え、簡単に死ぬな」
きょとんと見上げてくるユキの頬に手を添え視線を合わせる。無感情な瞳が僅かに揺れたような気がした。
「二度とあんな真似はするな。今度やったらただじゃおかねぇからな」
『…』
「返事は」
『はい』
小さく返された言葉は、困惑しているのか微かに震えているような気がした。
伏せられた瞳と今にも泣き出してしまいそうな表情に胸が締め付けられる。あまりにも不安定だと思った。こんなに深入りしてしまうのは、きっとこいつが昔の俺に似ているからかもしれない。
酷く不安定で、吹けば簡単に崩れてしまいそうな…そんな弱々しい存在。生きる意味も存在意義も見出せなかったあの頃の俺にそっくりだ。
だからほうっておけないと思ったのだろう。全てを諦めてしまったようなこの目を見ていると胸が締め付けられるような思いに駆られる。自分の手に視線を落とせば、まだ頬に触れたときの暖かく柔らかい感触が残っているような気がした。
無意識に手を伸ばしてしまったのも、きっとそのせいだろう。
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