あなたがそう言ったから

□生きろ
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いつも通りの訓練で、ユキはいつも通り手を抜いていた。

自分の班が休息となり、紅茶を飲みながら見上げればユキはハンジの班に混ざって訓練しているようだった。手を抜いているだけに余裕があるのか綺麗に飛んでいる。周りも良く見ていて班員と的確な距離を開けて飛んでいる。新兵らしく他の兵より少し遅いくらいの速度だ。

先日見た夢は結局、なにもなく終わった。俺が気にしすぎていたせいであんな夢を見たのだろう。ユキは何の変化もなく、相変わらずつまらなさそうに日々を過ごしている。

愛想のない表情で周りに声をかけられてもそっけない返事を返し、距離を作る。同情するほど面倒な性格に加え、ハンジにつつかれ撫でられちょっかいだされを繰り返される光景は可哀想にさえ思えてくる。

あいつがあそこまで面倒な性格になったのはいつからだろうか。訓練兵時代からあの性格だったということはそれより前…、そういえばユキがどこの出身かを聞いたことがない。どんな家で育ったのか何をやっていたのか。家族は?兄弟は?


…あぁ、思えば俺はあいつのことを何も知らないままだ。最近少し話すようになって距離が縮まったように思っていたが、ただの勘違いに過ぎなかったらしい。

ユキは誰も自分の領域に踏み込ませようとしない。壁を作り、殻の中に閉じこもっている。俺ではその壁を壊すことはできないのか…?


そう思いながら紅茶に口をつけた瞬間、呼吸が止まるような事態が起こった。

ユキの前を飛んでいた兵士が的に向かって刃を振り下ろした瞬間、角度が甘く刃が折れて弾け飛んだ。その刃が、一直線にユキに向かって飛んでいく。

折れたと思った瞬間には、もう刃はユキの額まで数センチに迫っていた。立体機動で飛んでいるユキが避けることは不可能。

……死ぬ。
そう思った瞬間、甲高い金属音が空間を引き裂いた。ユキが間一髪刃を弾き飛ばした音だ。

しかし、無理な体勢に陥ったユキはそのまま体勢を崩して落下し、地面に叩きつけられるように転がった。衝撃で立体機動装置が外れ、両手から離れた刃が地面に突き刺さる。

事態に気づいた兵士がユキの元に駆けつけた。


「ユキ!?オイ、しっかりしろ!!」

「揺らすな!頭を打ってるかもしれない」


すぐに駆けつけたハンジが、ユキを揺すろうとする兵士の手を止めた。ゆっくりと仰向けにさせればユキは気を失ったように瞳を閉じている。

刃を飛ばした兵士も遅れて駆けつけたが、その表情はまさに血の気を失ったようだった。自分が犯した失態によってユキの命が危険に晒されているという状況を理解しているようだった。


「誰か担架を運んできてくれ」

そう声をかけながら額に伸ばされたハンジの手よりも先にユキの額に手を伸ばす。俺が駆けつけてきた事にハンジは驚いていたようだったが、そんなことを今は気にしていられる余裕はない。


「…え、リヴァイ?」

「担架は必要ない。おい、ユキ…しっかりしろ」


相変わらず人形のように動かないユキに背筋に寒気が走ったとき、ユキの瞳がゆっくりと開いた。瞳を左右に動かし辺りの状況を見るや、自分に起こったことを思い出したのか…咄嗟に起き上がろうとするユキの肩を押さえつける。


「状況は理解したな?頭を打っているかもしれねぇから大人しくしてろ」

『…リヴァイ兵長』

「どこか痛むところはあるかい?」

『ありません。大丈夫です』


そう言うと俺の手をどかすようにユキは起き上がった。そして何事もなかったかのように服についた泥を払う。


『ご心配をおかけしました、すみません。もう大丈夫です』

「安静にしてなきゃ駄目だ。すぐ運んであげ…」

「お前は本当に人の話を聞かねぇ奴だな」


ハンジを押しのけ、勝手に立ち上がったユキの膝を左手で掬い上げ、倒れてきた上半身を右腕で受け止める。

見た目通りユキの小さな身体を抱えて「向こうで休ませる」と言えば、ハンジは呆けたような間抜け面を晒していた。


「うん、頼んだよ」

(まさかリヴァイがねぇ…)


駆けつけてきた時の焦った表情、額に滲んだ汗、ユキに語りかける柔らかな声。おまけに大切そうに抱え上げる手はまるで宝物を扱うようだった。

休息に入っていたはずのリヴァイはあのテーブルにいたはずだ。だいぶ距離が開いている…だとしたら駆けつけてきたリヴァイは相当焦っていたらしい。…あのリヴァイが?

見ればリヴァイの紅茶の入ったカップが倒れていた。溢れた紅茶にも気づいてないらしい。私が思っている以上にリヴァイはユキに入れ込んでいるのかもしれない…あるいはその事実に、本人すら気づいていないのかもしれない。

リヴァイに抱えられたユキの足が、じたばたと抵抗しているのを見て思わず笑みが溢れた。


「…ハンジ分隊長」

「あぁ、リヴァイに任せておけば大丈夫だよ」



**
***



『下ろしてください』


降りようとしているのか腕の中で身を捩るユキを見下ろせば、珍しく焦ったように表情を歪ませるユキの瞳と視線が交わった。


「大人しくしてろ」

『下ろしてください、大丈夫ですから』

「ふらついてたくせによく言いやがる」

『お願いですから下ろしてください』

「…!……オイ!」


強引に腕から逃れたユキは鈍い音を立てて地面に落下した。肩を打ったのか少し表情を歪めながら起き上がる。


「ふざけんなよてめぇ…せっかく人が心配して運んでやってんのに」

『…頼んでいません』


そう言ったユキは俺からわざと視線をそらすように視線を下げた。軽く唇を噛む仕草と僅かに揺れる瞳に、急に抱え上げられて戸惑ったのだと理解する。

思えば兵士が集まっていたあの場で悪いことをしたかもしれない。ユキは注目を浴びることを酷く嫌う。

俺はユキに背を向けてしゃがんでみせる。「これならいいのか?」『だから必要ないと何度も…』予想していた通りの返事。誰にも寄り掛かろうとしない、こいつらしい返事に胸が痛くなった。


「強がるな、ふらついてたのを見てる」

『寝起きにふらつくようなものです。もうその心配はありません』

「お願いだから乗ってくれ、心配掛けさせるな」

『…』


少しの沈黙の後、ゆっくり足を進める足音が聞こえたと思ったと同時に背中に体温が乗せられた。

肩に手が添えられ、恐る恐るといった様子でゆっくりと乗せられる身体は暖かく柔らかい。黒髪が首に触れ、息遣いすら聞こえるほどの距離に一度瞳を閉じる。

「しっかり掴まれ」と声をかけ、立ち上がって歩き出す。…暫くしてユキの片手が肩から離れた。どこかを抑えているのだろうか。


「どこか痛むか?」

『いえ』

「正直に答えろ」

『…、…頭が少し』

「ほら見ろ」

『…』

「他は?」

『擦りむいたくらいです』

「そうか」


再び落ちる沈黙。その時間すら貴重なもののように思えてくる。木々が生い茂る訓練場…少し視線を上げれば、風でその身を揺らす葉の隙間から木漏れ日が照らしていた。

サラサラと風に揺られ草木が音を立てる。ユキの黒髪がそっと腕を撫でた。背中にある体温が、存在が、どうしようもない安心感を与えてくる。

どうしてそんなふうに思うのか、もう俺は分かっていた。俺はいつのまにかこいつに特別な感情をもっていた。ふわふわとした気持ちが自分の中で燻り、ユキが今どんな表情をしているのか想像して、どうせ表情なんて浮かべてないんだろうと思うと何故だか笑えてくる。

こんな無愛想な女のどこがいいんだと自分でも呆れる。さっきまで背筋が凍るような思いだったのに、今自分の背中にはユキの暖かな体温がある。それが俺に心の余裕をもたせたのかもしれない。

こいつに触れて、気持ちは確かなものだと確信した。


「刃がお前に向かって飛んでいくのをみたとき、…俺は正直死ぬかと思った。お前は避けないんじゃないかと思ったからな」


一般兵ならまず避けられない。熟練兵士でも完全に避けるのは難しかっただろうあの刃をユキなら避けられることはわかっていたが、避けないんじゃないかという考えが頭を過ぎった。


『あなたが生きろと言ったんじゃないですか。』


耳元で零される小さな声。それは耳を済まさなければ聞きとれないほど弱々しく、いつもの凜とした面影は少しもない。俺の肩を掴むユキの手に、少し力がのせられた。


『…刃が向かってきた瞬間、死ぬんだと思いました。避けなければ死ぬ…その瞬間「生きろ、死ぬな」と言ったあなたの声が聞こえた気がしました。何がなんだかわからないまま勝手に体が動いて刃を弾いて、…結果がこのざまです』


ユキの隊服の裾はところどころ破け、地面を転がった際についた泥で汚れている。腕や頬、膝も擦り剥いた傷から血が流れていた。


「上等じゃねぇか。なにが何でも生き抜け…俺の言葉をお前は護ってくれたわけだ。それが俺は素直に嬉しいと思っている、…俺はお前に生きていて欲しいからな」


肩を掴むユキの指先が一瞬、ぴくりと動いた。ユキからの返事が返ってくるまでのたった数秒が、酷く長く感じる。忙しなく鼓動を刻む心臓の音が、直接耳元で響いているようだった。


『わかっています』


小さく呟かれた声は、今までに聞いたことのない穏やかなものだった。柔らかく暖かい声。きっと今ユキの表情もその声と同じように微笑んでいるのだろう。

表情が見れないことがもどかしい。こんなことなら無理矢理にでも抱えたままにしておけばよかったと後悔する。

そんなことを俺が考えているなんて露ほども知らないユキが、そっと俺の肩に頬をのせてきたのが分かった。


『暖かい』

「そうか」

『身体が冷たい人は心が暖かいと言いますもんね』

「何が言いたいんだ。…お前、最近俺に遠慮なくなってきてるだろう」

『可愛い新人の言うことですから、甘くみてください』

「可愛くみられたいなら、もっと愛想を振りまくことだな」

『努力します』


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