あなたがそう言ったから

□真実
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面倒な使いを終えて、調査兵団本部に戻ってきたのは夜も更けた頃だった。辺りはすっかり静まり返り、兵舎の灯りも殆ど消えている。


「リヴァイ兵長、私は馬を馬舎へ繋いできます」

「あぁ、頼む」


部下に馬を任せて扉を開こうとしたとき、奥の茂みに気配を感じた。暗くてよく見えないが、うっすらと人影のようなものが見える。

(こんな時間に誰だ?兵士か?…それとも)

ゆったりとした足取りで歩くそれは悪さを企むような人間のものでないことは明らかだ。それに男ではない、…女か?


「おい、そこにいるのは誰だ」


人影が止まり、振り返る。歩み寄ってそれが誰だか認識した時、俺は言葉を失うほど驚いた。


「…ユキ?お前、こんなところでなにしてんだ」


ユキは寝間着姿で、縛られていない黒髪は自由気ままに風に舞っていた。こちらに向けられた表情は暗闇でもわかるほど、苦しそうに歪められている。


「…どうした?…こんな時間に」

『…』

「黙ってちゃわかんねぇだろうが…」


相変わらず答えようとしないユキに手を伸ばそうとしたその時、乾いた音が響いた。ユキが俺の手を払った音。痺れるような痛みが手のひらから伝わってくる。


『…だから、戻ってきたくなんてなかったのにッ』

「…」

『あなたが余計なことをしなければ、こんな思いをしなくて済んだのに…ッ!』


そのまま走り去って行く背中を追いかけることができなかった。震える声で紡がれた悲痛な声と瞳から溢れる涙は、俺の思考を停止させるには充分だった。

追いかけようとしても、足が動かない。まるであの涙に呪いでもかけられたかのように指先すら動かせない。

手のひらからじんわりと伝わってくる痛みがなくなるまで、俺はその場から動けなかった。


「…え、リヴァイ兵長!?先に戻っておられたのではなかったんですか?」

「…あぁ」

「…リヴァイ兵長?」


それから俺は壁外調査までの数日間、ユキと言葉を交わすことはなかった。ユキが俺に近づくことを酷く拒んだからだ。

少しでも近づけばあからさまに避けられ、自由時間に中庭などの共用スペースに現れることもなかった。無理矢理にでもあの夜の言葉の意味を問いただすべきだったのだろう。

…だが、あの苦しそうな表情と頬を伝う涙を思い出す度、どうしてもそれはできなかった。



**
***



ユキが重傷を負ったと聞いたのは、壁外調査を終えたその日の夜だった。項を削がれ、倒れこんできた巨人を確認しながらもあいつは、巨人の手に落ちた兵士を助けるために自らその場に飛び込んでいったのだという。


「彼らには帰りを待つ人がいますから」…いつかユキが言っていた言葉を思い出し、すやすやと気持ちよさそうに眠る額を小突く。

久しぶりにまじまじと見る表情が、こんなに気の抜けた寝顔だとは思わなかった。生まれてから一度として緊張を解いたことがないような表情だ。


[あなたが生きろと言ったんじゃないですか]

あぁ、そうだ。俺はお前に生きろと言った。…なのに随分と無謀なことをしてくれたものだ。これで本当に死んだらどうするつもりだったんだ?


「なぁ、起きろよ。そうやって気の抜けた顔で眠っているのはお前らしくない」


[あなたが余計なことをしなければ、こんな思いをしなくて済んだのに…ッ!]


それにまだ俺は、あの言葉の意味を聞いてない。あれからいくら考えてもどうしてお前があんな表情をしていたのかわからなかった。だからこの壁外調査から帰ってきたら聞こうと思っていたんだ。

なのに、いつまでもこんな間抜けな寝顔晒してねぇで早く起きろ。いつでもお前は無表情の上に冷たい瞳をのっけていて、本当に無愛想でふてぶてしい奴だ。そんなお前がこんな風に阿保面晒して眠っていたと言ったらきっと心底嫌そうな顔をするんだろう。

そう言ったときの表情を想像して、思わず笑った。本人は迫力のあるつもりでも、睨みつけてくる瞳もはどうせなんの威圧も威厳もないんだろう。

いつものように寂しげに細められた瞳に俺は惹かれ、胸を打たれるんだろう。



**
***



数日後。ユキのベッドはもぬけの殻になっていた。外から吹き込む風がふわふわと白い絹のカーテンを揺らし、花瓶に飾られた花が室内に甘い匂いを広げていく。


「ユキはもういないよ、実家に帰ったんだ」

「知っている。こんないつ死ぬかもわからないようなところから抜けて、自分の家に帰ったんだ。いいことじゃねぇか」


主人のいないベッドを見つめていたリヴァイにそう言えば、返事はあっさりと返ってきた。

相変わらずこちらには少しも顔を向けようとしないリヴァイの口調はいつもと変わらない。声色もそのまま、…いつもの彼だ。

わかってるだって…?だったらどうしてもう誰もいない病室のベッドを、何日も見にきているのさ。

ユキがいなくなってからリヴァイは1日たりともこの部屋を訪れない日はなかった。リヴァイの気持ちは痛いほどわかる…ユキは目覚めてからエルヴィン以外の誰とも口を聞くことなく、姿すら見せず去ったのだから。

一方的な別れ。彼にとっては受け入れられない最後だっただろう。


「そもそもあいつはここにいるような人間じゃねぇだろ」

「聞いたの?」

「あぁ。大層立派な貴族の生まれだとな…どうして調査兵団に来たのかは知らねぇが、あいつにとってここにいるよりよっぽどいいだろう」

「…そうだね」


彼に本当のことを言うべきか否か迷った。気持ちは今すぐにでも言いたがっているのに、理性がそれを押しとどめる。

ユキが実家に帰ったと聞いた時、私はすぐにエルヴィンのところに乗り込んだ。実家に帰るということがどういうことを意味するのか…あの時の会話を聞いて私は知っていたからだ。

だから「どうして帰したんだ」とエルヴィンを問い詰めれば、どうやら今回のことはクレア家からの申し出ではなくユキから直接申し入れられたことらしい。

何度止めようと説得しようとユキは応じなかったという。「命令に背くような自分を兵団においておくつもりですか」「私はもう調査兵団で活動する気はありません」と言ったユキを、これ以上引き止める理由がなかったと。

…確かにそうだ。本人にやる気がなければ引き止めたって仕方ない。そんな兵士を連れて壁外にでれば、命を落とすどころか周りの兵士さえ危険に晒すことになる。

…だが、妾の子であるユキはこの先まともな扱いを受けることはない。表情すら失うほどの扱いを受けてきたうえに、ただ死なせるためだけに兵団組織へと送り込むような家だ。

ユキは自ら望んで帰ることにしたと言っていたが、兵団に入れ、公務として死なせることに失敗したからと強引に連れ戻されたに違いない…なんらかの手を使って、ユキと接触したんだ。

彼女はこの先どんな扱いを受けるのか?…分からない。想像するだけでも吐き気がこみ上げてくる。

だが、調査兵団組織として憲兵団とも強く繋がりのある彼女の家を相手取ることも難しい。組織というものは実に厄介だ…様々なしがらみに囚われ自由に動くことさえできない。


[…なんだよ、ユキ…なにも言わずに言っちゃうなんてあんまりだ]


そう言った私にエルヴィンは「ユキは誰にも言わずに去ることを望んだ」と答えた。

なんの後腐れもなく、誰の心の重荷になることもなく去りたい。そう願い、誰にも口を開くことなく耐えた彼女の努力を、私に全て無駄にする権利はあるのだろうか?

リヴァイは間違いなくユキに固執している。彼の実力をもってすれば、例え単独であろうとユキを連れ戻してくるだろう。

だが、それはあくまでも強引な力技にすぎず、後で制裁は必ず訪れる。リヴァイにそれを受ける意思があっても、ユキは負い目を背負い続けるだろう。

私はどうすればいい?
言うべきか?黙っているか?

ユキは実家に戻り、調査兵団から離れて平和に暮らしている…そんなシナリオならリヴァイは何も負い目を感じることはない。

自分の側に置いておきたいという気持ちがいくら強くても、結局大切な存在には平和な場所で幸せに暮らしていて欲しいと願うものだ。

でも、本当にいいのだろうか?後悔はしないだろうか?

…私は?……リヴァイは?


リヴァイは暫くベッドに落としていた視線を上げるとこちらに向き直り、歩みを進めた。

真っ直ぐに自分の道を見据える瞳。兵士長としての威厳を放つ鋭い瞳と視線が交わった。どくりと鼓動が鳴る。伏せられたリヴァイの瞳は、僅かに揺れていた。


「戻るぞ」

「…待ってリヴァイ!!」


本当に後悔しないかだって…?後悔するに決まってる。いつかリヴァイが本当のことを知ったとき、死ぬほど後悔するに決まってる。

私もそうだ。このまま黙っていてこの先平気でいられるはずがない…ユキに何かあったとしたら、私は死ぬほど後悔する!

誰にも知られることなく去ることをユキが望んでる?知るかそんなこと!ふざけるな!そうやって去られたらこっちが後味悪いだろうが!!


「なんだクソメガネ、いきなり大声を出すな」

「よく聞いてリヴァイ!このままじゃユキはまともな生活ができないどころか…殺されるかもしれない!」

「は?」


間の抜けた表情をするリヴァイにユキは貴族の子であるが妾の子であるということ。都合よく殺されるために兵士にさせられたこと。そしてそのための契約をエルヴィンに強引に持ちかけていたことを伝える。


「このまま戻ってもまともな扱いを受けるはずがない!…そしてなにより、ユキ自身がそれを甘んじて受け入れようとしてる!散々手法を凝らして殺せなかったとなれば、強引にでもユキを殺すかもしれない!!」


自分が都合よく死ぬために兵団組織に入れられたことをユキは知っていた。そして壁内に戻って来てしまった自分はもう、相手に従う他にないと思っている。彼女はずっとそういう扱いを受けながら生きてきた。

自分が死ななかったから。
死なずに戻って来てしまったから。

そう考えるのが当然だと思っている。


「…なんだよ、それ」


小さく呟かれた声には激しい怒りが込められていた。普段の私が聞いていたのなら背筋が凍り、肝を冷やし、声も出せなくなるほどの迫力だっただろう。


「…クソッ」


リヴァイは舌打ちと共に乱暴に言い捨て、病室を飛び出していった。彼がこのまま乗り込むというのなら私も一緒に乗り込んでやる。組織なんて関係あるか。だって私もリヴァイも、ユキを助けたいという気持ちは同じなのだから。



**
***



ユキがいなくなったと気づき、どうして黙っていなくなったんだと怒りが湧いた。それと同時に襲ったのは虚無感、喪失感、…後悔だ。

だが、裕福な暮らしに戻るならこんなところにいるより絶対にあいつのためだと我慢した。

…なのに、これからあいつは貴族の裕福な暮らしどころか普通の暮らしすら与えられず…殺されるかもしれないときた。名高い名家にとってユキのような存在は汚点でしかない。まともに扱われるわけもなければ、扱われてもこなかったはずだ。


[ここで私を見なかったことにしてくれませんか。]


どうして気づかなかった…初めて面と向かって言葉を交わしたとき、あいつは死のうとしていたのに。

死のうとした理由をいくら聞こうとしても、あいつは絶対に話そうとしなかった。頑なに話そうとしないのなら無理して聞くこともないと無理に聞き出すのをやめてから、最近では少し表情を見せるようになっていた。

そんな些細な変化を嬉しく感じていた。あいつ自身が生きようとしていたから、いつの間にか安心してしまっていたんだ。死のうとしていたという事実が、あいつと過ごしていくうちに俺の中で薄れていったのだろう。


[…だから、戻ってきたくなんてなかったのにッ]

[あなたが余計なことをしなければ、こんな思いをしなくて済んだのに…ッ!]


どうしてあの夜、無理矢理にでも引き止めなかった?どうして壁外調査から戻ってきてから聞けばいいなんて甘い考えを持っていたんだ?

ずっと前からあいつは助けてくれと叫んでいたのに。生から逃れようとするほど苦しんでいたのに。表情を失うほど、辛い思いをしてきたのに。


[なんかユキっていつも泣きそうな顔してるんだよね]


いつかクソメガネが言っていた言葉を思い出して、自分の不甲斐なさに腹が立つ。

ごく僅かに見せる笑顔ばかりを見ていて、普段のユキの表情を見落としていた。あいつはいつだって悲しそうな目で、諦めたように笑っていたのに。




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