空色りぼん
□彼の怒り
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ゆっくりと訪れた静寂に瞳を開けると、さっきまでなんだかんだと騒いでいた女はその瞳を閉じて静かな寝息をたてていた。あれだけ騒いでおきながらこうもあっさりと寝付くとは呆れさせる。
小さく溜息をつけば、あまりにも無防備な寝顔に自分が叩き起こした初日の事を思い出した。…そういえばあの時もこいつはぐーすか寝てやがったな。
立体機動装置を不正に入手し使用した所を兵士に捕まったというのに危機感の欠片もあったもんじゃない。なんて呑気な奴だと暫くその幸せそうに眠る無防備な寝顔を見下ろしていたような気がする。
黒髪から覗く、意思のこもった光を灯す綺麗な瞳。しかし時折酷く寂しそうに伏せられるそれに今まで何度か振り回されてきた。
だからと言って何をするわけでもないが、あまりにも儚い寂しげな瞳を見るとどうも放っておけない自分がいる。本人は全く自覚していないのだろうが、ころころ変化し心を惑わす瞳は今は瞑られ伏せられている。
こうしてみればただの普通の女だ。…というか餓鬼だ。とても地下街のゴロツキとは思えない。
ほんのりと赤く染まった頬に影を落とす長い睫毛、白い肌に浮かぶ赤い唇はまるで精巧な人形のようだ。立体機動をさせれば他の誰よりも高く速く飛び回るくせに、少しすれば肩で呼吸を繰り返すひ弱な女。
[巨人に食われるか、………巨人に殺られるか人間に殺られるかの違いでしょ]
…だが、こいつがただの餓鬼じゃないということを、ふとした瞬間にぽつりと零される言葉で実感することがある。
本人は意識せず無意識なのだろうが、そうして零される言葉はいつもどこか遠くを見ながら酷く覚めた声で紡がれる。
「…」
すやすやと深い眠りに落ちているユキの髪を軽く撫でると、絹のような黒髪がするりと指の間を通り抜けた。
拠点に帰って来た時、この揺れる黒髪を見て正直安心した。
実力は訓練で充分に分かっていたし、こいつは既に初見で巨人の首を斬り落としている。本物の巨人を前にして訓練の成果がでないのではないかという心配はしていなかった。
…なのに出発前、ハンジが余計なことを言ってきたせいでしなくてもいい心配をするハメになった。全てはあのクソメガネのせいだ。本当にあいつは毎回面倒なことをしてくれる。
遠回しに「拠点につけよ」と言ったのも、生きて帰ってきて欲しいと思ったからだろう。いつものようにこいつは分かってるのか分かってないのかへらりと笑っていたが、自分が捕まえたことによってユキは調査兵団に来たのだからあっさりと死なれてしまってはさすがに思うところはある。
[私にとって巨人はそれほど脅威じゃない。それよりも私は未だに調査兵団の気が変わって、地下牢に放り込まれるんじゃないかって怯えてる]
だが、あながち的外れな心配でもなかったらしい。クソメガネの言う通りユキは普通の人間に比べて生きることに執着がないように思える。
初見で巨人の首を斬り落とせたのも、巨人のことをそれほど脅威じゃないと言ったのもそうだ。ユキにとっては死ぬことより地下牢に放り込まれることのほうがよっぽど恐ろしいことらしい。
それは恐らくユキの過去に関係しているのだろう。ユキが俺の想像するような過去を送っていたのなら、自由を奪われ地下牢に拘束されることを恐れて当然だ。
[だからさ、リヴァイ。もし私を地下牢に放り込むくらいならいっそのこと潔く殺してよ]
…また同じような目にあうくらいなら、死んだ方が楽だと思うだろう。今までだって何度も思ってきたのだろうから。
「…余計な事を考えさせやがる」
何故かこいつには振り回されてばかりだ。心が乱され、いつものようにいられない自分がいる。
自分が捕まえたせいで調査兵団へ来ることになったというのもあるだろうが、同じ地下街出身というのもあって放っておけないと思ってしまう。…面倒な存在を増やしてしまったものだ。
**
***
「でも、あれだねぇ。寝起きのユキはリヴァイそっくりだね」
「『誰がこんな』」
「間抜けヅラだ」
『目付き悪いっていうの』
「息ピッタリだねぇ」
目の前でハンジがケラケラと笑い、隣に視線を向ければリヴァイの眉間に不愉快そうに皺が寄っている。
不愉快なのはこっちだ。昨日の夜強引に寝かされ、今朝は結局蹴り起こされた。
なんなんだ一体。もう少し優しく起こしてくれてもいいんじゃないの?思わず初日の事を思い出し、そういえば始めからこういう男だったと諦める。
「その合った息に期待してるよ。二人には巨人の捕獲っていう重要な仕事があるんだからね!」
『ハンジ、近い。鼻息も荒くて怖いし気持ち悪い』
ぐいぐい近寄ってくるハンジを両手で制すが、どんどん壁側に追い詰められていく。助けを求めるように視線を向けるが、当然リヴァイは無視を決め込んでいる。
くっそぉぉあの男のほうに行けばいいのに!…でも、行ったところで有無を言わさず蹴り飛ばされるのを知ってるからハンジも行かないんだろうけど。
そんな下らないやり取りをしていると、兵団の出発準備が整っていた。捕獲作戦場所までは別々の班で移動なので、次に会うのは目的地についてからだ。
「もたもたしてるようなら俺一人で片付ける」
『わかってるよ』
冷たく言い捨てられる言葉に、ふんっと素気なく答える。
「行くぞ!索敵陣形、展開!」
エルヴィンの掛け声と共に一気に隊列が前進し、陣形を展開していった。
**
***
ーー…ギリ、…ギリッ。
「やっほぉぉぉぉおおおおい!」
縄で拘束されている巨人の前で、ハンジは顔を真っ赤にさせながら叫んでいる。捕獲任務は無事終了し、7m級の巨人を一体捕獲した。
「すごいすごいすごい!本当に巨人を捕獲しちゃうなんて!」
「近づきすぎですよあんた!食べられたいんですか!」
「…うるせぇなクソが」
ギャーギャーと騒いでいるハンジとモブリットを見て大変そうだなぁと思っていると、リヴァイが盛大に舌打ちした。
「二人とも良くやった」
『エルヴィン』
「早々に悪いがゆっくりしている時間はない。早急に撤退準備してくれ」
『分かった』
「了解だ」
巨人の血で濡れた手をハンカチで拭いながら、リヴァイは不機嫌そうに返事をする。巨人を削いだんだから手に血がつくのは当たり前だろうが、やっぱり潔癖症には許せないらしい。
ゴシゴシとハンカチで手を拭いながら自分の馬へと向かって行くその背中を無言で見送る。
[俺の動きに合わせろ]
なんて適当な事しか言われていなかったが、始まってみれば本当にそうするしかなかった。一気に加速したリヴァイが巨人の目にブレードを突き刺し、目にも止まらぬ速さで視界を奪う。
私はリヴァイを掴もうとする手の腱を削ぎ落とし、後はリヴァイの動きを邪魔しないように彼とは反対の足の腱を削いだだけだ。
リヴァイの巨人捌きはやはり人類最強と言われるだけあって素直にすごいと思った。あとは動けなくなった巨人を待機していた他兵士が縄で厳重に縛り付け、捕獲完了となった。
二人で削いだ部分が徐々に再生されていっているが、あれだけの縄で拘束していれば心配はいらなさそうだ。
今だに叫んで離れないバカを見ているとモブリットがなんだか可哀想になり、引きずって行ってやろうと思い足を踏み出した時だった。
「ぎゃぁぁぁあああああ!」
拘束されていた巨人が一際大きな声で鳴いた。…いや、叫んだ。その声に縄を縛っていた兵士たちは驚き、縄が切れていくのにも気づかず頭を抱え込むように耳を塞ぐ。
「…チッ!」
リヴァイが駆け出したが、既に巨人は大口を開け一人の兵士を飲み込む寸前まで迫っていた。
「…あ」
やっと兵士が顔を上げた時には、巨人の大きな口が目の前に広がっている。誰もが間に合わないと思った時、巨人の口の前に走りこむ小さな体をリヴァイは捉えた。
「…馬鹿ッ!」
ユキは走り込んだ勢いそのまま巨人の両目をブレードで斬り裂く。
ーーズシャァァ…ッ!
巨人が悲鳴を上げながら一瞬怯んだが、目が潰れる直前に見た人間を捕食するため、その大きな口を前へ進める。
右足を踏み込んだユキは軸足を中心として体を回転させ、周りの風を纏いながら遠心力を纏わせた一撃で巨人の口を斬り裂いた。
ガコッと繋がりを絶った巨人の下顎は顎が外れたように地面に落ちる。
ーーバキィィイン!
それと同時にブレードは威力に耐えきれずに折れ、破片が宙を舞って地面に突き刺さった。
その状況に至った時には、ユキの小さな体は半分ほど巨人の口に収まっていた。下顎を切り裂いていなければ、今頃上半身と下半身は繋がっていなかっただろう。
その直後、バシュッという音と共にリヴァイが巨人の項を削ぎ落とした。削がれた頸の肉塊が宙を舞う。やがて巨人はゆっくりと横向きに倒れ、その形を失っていった。
『危なかったぁ』
巨人の口が無くなると、目の前は一気に青空が広がった。後ろを振り返ると、巨人に飲み込まれそうになった兵士が涙を流しながら震えていた。
よっぽど怖かったのだろう。その兵士に向かって手を差し出そうとした時、背後からグッと誰かに肩を引っ張られた。
あまりの強さによろめきそうになりながら、引っ張った人物を見ようと視線を上げた時…。
ーー…ゴッ!
『…〜ッッ!!』
嫌な音と共に、言葉が出ないほどの衝撃が頭に走った。
…今、なにをされた!?
視線を上げると、眉間に皺を寄せたリヴァイと視線が交わった 。
…だが、いつもの仏頂面とは明らかに違う。その拳は硬く握られ、今までに見たことがないくらい怒っているリヴァイにおずおずと口を開いた。
『…リヴァイ?』
「…」
返事はない。
なんだ?どうしたんだと思っていると、その口が静かに開かれた。
「どういうつもりだ」
低く冷たい言葉と鋭く向けられる視線に背筋が凍る。これはいつもの比ではない。…本気で怒っている。
”マリーがぁぁぁ!私のマリーがぁぁああああ!”
と、言うハンジ叫び声も、目の前の男の殺気にも似た怒気を向けられた今となっては耳に入ってこない。
「お前は死ぬつもりだったのか?」
『…違うよ。確かに危なかったかもしれないけど、間に合うと思ったから』
「一歩間違えば死んでいたんだぞ、分かっているのか?どうして頸の肉を削がなかった」
『せっかく捕獲した巨人を殺さない方がいいと思ったのと、今までのくせもあって咄嗟に思いついたのは削ぐより斬るほうだった。単純に判断を誤ったかもしれないけど、こうして無事に死傷者を出すこともなかった。…なのに何をそんなに怒ってるの?』
リヴァイが何に怒っているのか全く分からない。私の今の行動のなにかが逆鱗に触れたらしいが、なにが悪かったのかがわからない。
私はただ、食べられそうになった兵士を助けようとしただけだ。
多少無理をしたとは思っているし、リヴァイの言う通り頸を削ぐべきだった。だが私のいた方向から頸を狙っていればこの兵士が食われていたかもしれないし、咄嗟に削ぐより斬るほうが出てきてしまっただけだ。
私は食べられそうになっていた兵士を助けた。それの何がいけなかったというのだろうか?
…静かな沈黙が落ちる。指先一つ動かせない緊張感に包まれた時間が永遠のように感じた時、エルヴィンがその沈黙を破った。
「捕獲作戦は失敗だ、全隊撤退!早急に撤退する!」
固まっていた周りの兵士が号令と共に動き出す。
暫く睨み合いをしていたリヴァイも、無言のまま踵を返して自分の馬の元に戻って行った。
『…なんだったの、今の』
遠ざかって行く自由の翼を見ながら小さく呟く。
そうして第一回巨人捕獲作戦は失敗に終わったのだった。