空色りぼん
□異例の洗礼
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「お前は落ちたくないんだろう?」
『それはそうだよ、痛そうだもん』
「だったら、下らねェことばっか考えてないで黙って掴まっとけ。誰も嫌だとは言ってない」
グッと手を引かれ、再び腹部に回される。冷たい言葉とは対照的なその行動に、触れられた手が熱を持ったように熱く感じた。
腕を回した身体は、小柄なくせしてしっかりと筋肉がついていて硬い。見た目よりはるかに肩幅も広いんだなぁと実感して、何だか恥ずかしくなってその背中に顔をうずめた。
その瞬間、少しだけ彼の体が強張ったように感じたのはきっと気のせいだろう。
「…それにしても、んな下らない事まで考えられるってことは余裕が出てきたってことか」
『…ま、…まぁ』
「そうか」
そう言うリヴァイになんだか嫌な予感がする。
…うん、とても。リヴァイの表情は見えないけど、とてつもなく嫌な予感が背筋を凍らせた。この自分の直感は今まで何度も頼ってきた…そして外れることは滅多にないことも分かっている。
「…なら、いい。スピードを上げるぞ」
『待って!これ以上早くなるの!?』
「当たり前だ、お前は壁外で呑気に散歩でもするつもりだったのか?」
「待って」言うユキを無視し、リヴァイは手綱を引く。そのまま一気に加速すれば、ユキはもうただただしがみつくしかなかった。
**
***
「いやぁ大変だったね、ユキ」
『…死ぬかと思った』
「ははは、お疲れ」
ハンジにぽんぽんと背中を叩かれる。リヴァイはと言うと、部下の誰かが呼びに来て兵舎へと戻って行った。
エルヴィンからの呼び出しだろうが、あれがなかったらずっと乗馬させられいてたんだと思うとゾッとする。
『これなら昨日みたいに永遠と立体機動やってるほうがよかった』
「でも、なんとなくコツは掴んだんじゃないの?」
『…少しだけ』
確かに、それは否定できなかった。
馬に乗る感覚と、風を切る感覚。今まで恐怖しかなく全く未知の世界だったところから考えれば随分前進した。
むくりと起き上がるユキに、ハンジは「どうしたの?」と問いかける。
『何って、練習だよ』
「もうやるの?ついさっきまでヘロヘロで全身から力が抜けたみたいに項垂れてたのに」
『…リヴァイになめられたままじゃいられないでしょ。それに今週中にはなんとかするって言っちゃったし』
ユキはひょいっと馬に跨ってハンジを見下ろす。とても軽々乗ったように見えたが、顔はよく見ると青ざめて引きつっていた。
「ユキって負けず嫌い?」
『健気だと言って』
ハンジは「ははっ」と笑う。ユキの白くふかふかとした手が手綱を握る。絹のような黒髪が、太陽の光をいっぱいに取り込み宙を舞った。
**
***
ーーガコッ!
「!」
立体機動の訓練中、普段ならあり得ない異常な音が鳴った。
それと同時に目の前を飛んでいたユキの小さな体が、ガクンッと急降下するのを見たハンジは思わず声を上げる。
「ユキ!」
危うく大木にその身を叩きつける寸前でユキはもう片方のアンカーを素早く放ち、体制を立て直してなんとか正面衝突を回避した。
『…危なかったぁ』
木の枝に着地した彼女の元に駆け寄ると、ユキは焦ってるのか焦ってないのか分からない無表情でぽつりと呟いた。
「一体どうしたんだいユキ!?君が急に体制を崩すなんて」
『立体機動装置の故障だと思う』
ユキは機能しなくなったアンカーをハンジに見せる。
すると、アンカーの留め金が異様な方向に曲がっていた。どう見ても自然に壊れたのではないそれにハンジは眉根を寄せる。
「…これって」
『私の使い方が悪かったのかもね』
へらへらと笑うユキに、ハンジは珍しく更に眉根を寄せた。
「違うでしょ!?ユキ、これは重大な問題だか……んぐっ」
『ハンジ』
ユキはハンジの言葉を遮るように口を塞ぎ、へらりと笑う。
『告げ口は禁止だよ?こんなことで、エルヴィン達の手を煩わせたくないから』
笑っているのは口だけでその瞳には念押しするように冷たい光が灯されており、ハンジは黙ってユキの瞳を見つめ返す事しかできなかった。
**
***
「……と、言う訳なんだ」
珍しく神妙な面持ちをしたハンジは、執務室で話しているエルヴィンとリヴァイの話を遮って事の次第を伝えた。
「…分かってはいたが、ここまでくると手を打たないといけないかもしれないな」
エルヴィンが複雑そうな表情を浮かべて小さく呟く。
「今となってはユキも完璧に兵団に溶け込んでいるし、大半の兵士たちもユキを慕っているんだけど……」
「数は少くとも、そうじゃない人間もいるってことか」
ユキが調査兵団に来てからというもの、彼女はあっという間に調査兵団に溶け込んでいった。それは彼女の明るい性格と、人懐っこい笑みのなせる技だろうとここにいる者たちは思っている。
実際兵舎では夕食後の自由時間に酒を囲みながら、トランプやらチェスやらで盛り上がっている様子を何度も見かけている。
談話室で行われるそれは和気あいあいという表現が相応しく、ユキがその和に入っているのがいつの間にか日常の光景となっていた。
立体機動の方は兵士たちの訓練に参加するようになり、彼女の実力も認められて今では大半の兵士がユキを慕うようになっていた。
元々東洋人独特の容姿が目立っていたということもあるが、それ以上に彼女の性格と実力が成し遂げたものだろう。
しかし、訓練過程も経ていない得体の知れない女。
どこからともなくひょっこりと現れたユキが幹部と仲良くしているのをよく思わない兵士がいることも確かだ。要は彼女の実力に嫉妬している。
「…放っとけ、次第に納まるだろう」
「始めはしょうがないと思ってたけど、見逃せないでしょ?立体機動装置に細工するなんて」
「だとしても、それは俺達が口出しするようなことか?そうしたら、余計に悪化することは目に見えている」
「…そうだけど」
「俺たちはあいつの保護者か?違うだろ。そんなものは本人が解決することだ」
「誰かのように、気に入らない連中を暴力で抑え込めればいいんだが」
「…」
書類を携え扉に手をかけたリヴァイは、エルヴィンの言葉にピタリと一瞬その手を止めた。
しかしリヴァイは何も言わないままゆっくりと扉を押し開き、背後からの視線を無視して部屋を出る。
「…下らねぇ」
ユキの事をよく思ってない連中がいることは知っていた。この光景は前にも見たことがある。
ーー自分が入団した時と同じだ。
異例の入団。訓練過程を経ずに入団し、幹部にまでのし上がった俺を気に食わない連中は多かった。
だが、その殆どは睨めばその粗末な口を閉じる臆病な奴らばかりだ。奴らの砂場の山より低いプライドの惨めな嫉妬だ。…くだらねぇ。
それでも食いついてくる奴は暴力という圧倒的な力でねじ伏せた。躾に一番効くのは痛みだ。兵士なのだから、手加減する必要はないと思う存分蹴散らしたのは記憶に新しい。
…だが、ユキはそうはしないようだ。くよくよ泣き寝入りか?とも思ったが、あいつはそんなタマではないだろう。
そろそろ我慢の尾も切れる頃だろうと思っていたが意外と冷静らしい。俺ならとっくに手を打つどころか、靴底をめり込ませてやるところだ。
[告げ口は禁止だよ?こんなことで、エルヴィン達の手を煩わせたくないから]
ユキは誰かに助けを求めるようなことはしないのだろう。
ゴロツキとして生活していたあいつにとって兵士たちの冷たい視線や悪戯など、可愛いものなのかもしれない。
あの場所ではこことは比べ物にならないほどの扱いを受けていたはずだ。
だからと言って放っておけば必ず厄災が降りかかってくる。今回は怪我もせずに済んだが、これ以上悪質になったらたちが悪い。
…だが、それも自分でなんとかすることだ。俺の知ったことではない。
そんなことを考えていると廊下の先から話し声が聞こえてきた。
噂をすれば…とでも言うタイミングだ。話しているのは空色のリボンを揺らすユキと、何故か憲兵だった。
**
***
「君は、調査兵か?」
廊下を歩いていると、すれ違った兵士に声をかけられた。
振り向くとその男はじっとこちらを見ている。胸のマークからどうやら憲兵らしい…しかも、中々上の方にいそうな佇まいの男だ。
『…そうだけ……そうですけど』
途中まで言いかけて改める。憲兵団はゴミのようなボンボンの集まりだが三兵団の中ではそれなりに力がある。
調査兵団に迷惑をかけないためにも、無難な言葉を選んでおこうと言い直しておく。
「姿を見かけたのは初めてだな。君はいつからいるんだ?」
見たことないのは当然だ。だって訓練過程を経ていないうえに調査兵団に来たのはつい最近のことだ。
…なんて言えるはずもないし、適当に誤魔化してさっさと帰ろう。
『まだまだ新兵ですから、見かけることも無くて当然かと』
「いや、君のような美しい兵士を見逃すはずはないのだけれどね」
…なんなんだ、この男は。私の事を不審に思っているのか?…とも思ったが、どうやらそうでもないようだ。
私に不信感を抱いている様子はない。…なんだ?ただの暇つぶしか?そのためにわざわざ呼び止められたのかと思うと、思わず舌打ちが零れそうだった。
こっちはこれから訓練があるというのに。
『それはどうも』
「君はどうして調査兵団なんかに入った?」
まだ続くのかと思いながらも、ぐっと気持ちを抑え無難な言葉を選んだ。
『壁の外の世界に興味があるからです』
「壁の外に出て何になる。この壁の中にいれば平和だというのに、わざわざ巨人の餌になりに行くようなものではないか。…くだらないな」
『…、わざわざ呼び止めておきながら用件はないのでしょうか』
「おっと、すまない。怒らせるつもりはなかったんだ。君は、憲兵団に来る気はないかい?」
『は?』
思わず声を漏らす私に男は続けた。
「君のような女性が壁外で巨人の餌になるのなんて勿体無い。耐え難いことだ。憲兵団に入団すれば、王の側近につくことも遠くはないだろう…私が約束する」
今までよりもいい物も食べられるし、高級な洋服だって手に入る。何より、内地に行けるから身の安全も保証される。
そう続けた男に「どうだ?」と言われ、思わずため息を零した。
「いい条件だろう?」
『とても魅力的な条件ですね』
「そうだろう?」
『ですが、私は調査兵団を離れるつもりはありません』
そう言うと男は驚いたように目を見開き、身を乗り出すように声を上げた。
「どうしてだ!?なにが不満なんだ、これ以上ない誘いだろう?」
『興味がないと言っているんです。私は人の機嫌を伺いながら生きることに意味があるとは思えません。そもそも私の心臓なんて王は必要としてないでしょう』
「ははは、何を言う。君のその容姿は至上だ。絹のような黒髪も黒真珠のような綺麗な瞳も王に気に入られるだろう」
『私は愛玩動物になるつもりは無いと言っているんです』
何が王は気にいるだ。…どうせお前達のような暇人に弄ばれて終わりだろう。憲兵団なんてそんなやつらの集まりだ。今まで何度下品な誘いをしてくる憲兵を蹴散らしたことか。
自分の思い通りにならないことにしびれを切らしたのか、男は拳を握り米神に青筋を浮かび上がらせる。
「調査兵団なんかになってどうするつもりだ!あんなのはただの英雄ごっこに浸っている馬鹿どもにすぎん。税金を使って巨人に餌やりをする奴らのところにいる理由など……」
捲し立てるように言っていた男の言葉がピタリと止まった。
黒髪から覗くユキの瞳はあまりにも冷たく、足元を掬い上げるような殺気に男は声を出せずに口をぱくぱくと情けなく動かす。
『勝手なことをベラベラと…』
ユキがゆっくりと一歩踏み出すと同時に、男は無意識に足を一歩引いた。まるで精巧に作られた人形のように美しい小柄な少女から発せられたとは思えないほど冷たく澄んだ声に、男はごくりと息を飲む。
『はっきり言わなきゃわからない?王様にしっぽふって餌をねだるような下らない兵団に、興味はないって言ってるんだけど』
「…お、…お前は何をしているのか分かっているのか…っ、憲兵団への栄転だぞ!?こんな機会はないんだぞ!?」
(憲兵団に行くことが栄転?…ふざけるな、あんな腐った奴らのいる組織に誰が行くものか)
後ろでまだごちゃごちゃと騒いでいる声が聞こえるが無視して踵を返す。
確かに食べ物にも困らず内地にも行けて身の安全も保証されるのなら、この上ない魅力的な話なのだろう。あんなクズどもの溜まり場だとしても以前の自分だったら二つ返事で簡単に承諾していたかもしれない。
特に生きる意味もない自分は、楽をしてなんとなく生きられれば良かったからだ。
…でも、今は違った。「いいよ」と思わず頷きそうになる自分を、何かがぐっと押さえつけた。
それは調査兵団から離れれば、立体機動装置を不正に利用した罪に問われるからではない。調査兵団を否定されたことに腹が立った。
出会って数か月と言えど、これほど自分と深く関わりあった人間は今までいなかった。
寝食を共にし、厳しい訓練をし、下らない事で笑い合う。
そんなふうに過ごしていられるこの場所から離れたくないと思ったのかもしれない。こんなことを思うなんて、なんだか自分が自分じゃないようだ。
『…勿体無いことしたかな』
そう思いながら訓練前の昼食のため、食堂へと向かった。