空色りぼん
□本当の笑顔
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「最近、リヴァイに付きっきりのようだな」
『…なんでだろうね』
ある日、リヴァイからの書類を持ってくる事が多くなった私にエルヴィンが心配そうに言った。
『始めはちょっと手伝うよ、くらいの気持ちだったんだけど、なんだか恒例化しちゃって』
『まぁ、別にいいんだけどね』と言うとエルヴィンが呆れたように溜息をついた。
「あの机は撤去しないで正解だった」
『リヴァイの執務室に置いてある机?そういえばあれはどうしてあそこにあるの?』
「リヴァイの補佐役の為にあった机なんだが、見事にみんな追い出されたんだ」
私は思わず『…え』と表情を歪めた。
『補佐役についた人を追い出したってこと?』
「そういう事だ。だから、机が形だけ残っていたんだ。追い返しもしないで自分から頼んだのはユキだけだよ」
どうして机があるのか知らないって言ってたくせに、自分で追い返してたんじゃないか。
どうしてそれを私に言わなかったのかは疑問だが、追い返されていないのが”私だけ”という事に嬉しいと思ってしまっている自分がいる。
「あれは元々机仕事には向かない男だからな、それでも仕事は完璧にこなすからこちらも任せてしまうんだが…助けが来てくれてリヴァイは感謝しているだろう」
『今まで来てくれてたのを自分で追い返してたくせに?』
「君も分かっていると思うが、彼は難しい性格だろう?だから、気が合わなかったんだろう。「自分一人でやるほうが速い」と言ってね」
…その話だと私とは気が合っているという事になる。
残念なことにそんなふうには全く感じられない。まぁこれくらいなら許してやるか、という許容範囲にはギリギリいるということなのだろうか。
…なんて上から目線なんだ。
と、勝手に想像して溜息をつく。
『これ以上リヴァイに渡す書類はない?』
「あぁ、さっき渡したので終わりだよ」
『よかった、…書類が増えると私を睨むんだもん』
「あはは、すまないね」
私が増やした訳じゃないのに何故か毎回睨まれる。こんな苦労をエルヴィンは今まで繰り返してきたのだ。本当に尊敬する。
「これからユキは訓練かい?」
『ううん、私は午前中で終わり』
「それなら今日はもうゆっくり休むといい」
部屋を出ようとする私にエルヴィンはにこりと笑顔を浮かべる。私はもう一度溜息をついた。
『…まだ、…昨日までが期限の書類をハンジに書き上げさせる大仕事が残ってる』
「…それは、…大仕事だな」
『リヴァイにやらされる雑務より何倍もね』
『じゃぁね』と言い残して扉を閉める。エルヴィンの机にも書類が残っていたから、彼の一日もまだまだ長いのだろう。
私は深く深呼吸を繰り返し、気合を入れてハンジの部屋に向かった。
**
***
「ねぇー、ユキー」
『口を動かさない、手を動かす』
「…けちー」
『うるさい』
机を離れてプラプラしていたハンジの引き摺って机に座らせたのはいいものの全くペンが進まない。
少し進んだかと思えば「ねぇー」と話しかけてくる始末だ。子供かお前はと引っ叩きたくなるのを必死に我慢する。
『その報告書は昨日までが提出期限だったんだけど?どうして今日になってもできてないの?』
「だって研究成果を書類に写すなんて無駄な作業してる暇あったら、新しい次の研究をしたいじゃないか」
『無駄な作業もあんたの仕事でしょうが。あんたの頭の中にあるだけじゃ御偉いさんは納得してくれないの。その書類が無いと先が進まないってイライラするリヴァイと同じ部屋で仕事する私の身にもなってよ』
エルヴィンに持っていく書類を渡されたのと同時に言われたのは、「あの馬鹿から何としてでも書類を絞り上げて来い」だった。
しかも、日が落ちるまでときたものだ。私だってこんな下らないことやってる暇があるならゆっくり夕食を楽しみたかった。
なのに、この馬鹿のペンは一向に進まない。
元々頼りない私の堪忍袋の緒も切れる寸前。机に座らせ正面から見張りをし、足を揺らしながらプレッシャーを与えている。
「そんなに怖い目で見ないでよ」
『私より怖い目をした人が、執務室で待ってるんだけど?』
「いやだねぇ、怖い怖い」と呑気に言うハンジの頭を殴ってやりたくなる。…この部屋埃っぽいし早く帰りたいしお腹も空いた。
「それにしても、ユキはリヴァイの補佐役が板についてきたねぇ」
『…下らないこと言ってないで手を動かして』
「動かしてるでしょー」
確かに喋りながらも、ハンジのペンはすらすらと書類に文字を刻んでいっている。静かにやるより話しながらやるほうが、ハンジには向いているのかもしれない。
「初めは驚いたよ、あのリヴァイが自分の執務室に他人を入れて仕事するなんて。彼に憧れる人達が手伝いに行ってたけど、みんな悉く追い返されてたのにねぇ」
『…エルヴィンに聞いた』
「あれ、そうなの?でも長く続いてるよね」
『長くって…、まだ一ヶ月くらいの話でしょ?』
「充分長いよ」
ケラケラと笑ったハンジのペンが止まり、『手を動かせ』と椅子を蹴ってやると「ごめんごめん」とまたペンを動かし始めた。
「やっぱり合うんだねぇ、2人は」
『……、…それエルヴィンにも言われたけど、そんなことはないと思う』
「どうして?」
『執務室で仕事してたって特に会話も無いし、あったとしても一言二言くらいだよ。殆ど仕事の話だし』
「それがリヴァイにとっては楽なんだよ。気を使ってベラベラ喋られるのも嫌だろうし、逆に気を使われて黙っていられるのも嫌だろうし」
『…我儘だねぇ』
「だけど、ユキはそれがないんじゃない?自然体で、どうせ気なんか使ってないでしょ」
ハンジの言葉にむっと眉間に皺を寄せる。それだと私が何にも考えない自分勝手な奴みたいだ。
…確かに気なんて使っていないのだけれど。使っているとしたら紅茶が無くなった時に、新しく淹れてあげる事くらいだ。
お互い自然体でいる。…だから、ペンを走らせる音だけの静かなあの空間は自分にとって息苦しくなく、居心地がいいのかもしれない。
それを、リヴァイがどう思っているのかは分からないが。
ぺらりと目の前に書類が差し出され、思わず目を瞬かせる私にハンジは笑った。
「なに、書き終わったことにも気づいてなかったの?あんなに見張ってたのに」
笑いながらそう言うハンジに、考え事をしてて気づかなかったんだと分かって恥ずかしくなる。
『この書類をどうやって渡せばご機嫌を損ねないか考えてたんだよ』
「はいはい」
ハンジから書類を取り上げ、誤字脱字がないか確認する。これで間違いがあればリヴァイは本気でハンジの元に乗り込みかねない。
これだけ待たせておいて更に待たせる気か、と。
「…ユキはさぁ、本当はすごく優しいよね。気もきくし本当に有能だと思うよ」
『……は?』
ハンジの言葉に、思わず書類から目を離した。
私が優しい?有能?何を言っているんだこいつは、とだらしなく椅子に腰掛けるハンジを睨みつける。
「なんだかんだ言ってもリヴァイの手伝いを完璧にこなしてるし、本人の怒りを直接来させないようにわざわざここに書類を取りに来てくれたし。」
それは大きな間違いだ。リヴァイの手伝いをしているのは嵌められたからで、ここに書類を取りに来たのは命令されたからだ。
そう言うと、ハンジはまたけらけらと笑った。
「でも、チェックして持ってこいとまでは言われてないでしょ?」
『…』
「それは、私とリヴァイの二人に対しての気遣いなんじゃないの?」
返す言葉がない私は口を閉じる。
珍しくハンジの言う通りだった。
「あと、私が無くした書類も一緒に探してくれたし」
『あれはケーキを奢らせたでしょ』
「そういう不器用な癖に優しいところが似たもの同士なんだよ、ユキとリヴァイはさ。だからユキとリヴァイは気が合うんじゃないの?」
『…考えすぎだと思うけど』
そう言う私に、ハンジは「そうでもないよ」と続けた。
「そういうところが私は好きだよ」
書類から視線を上げると、ハンジは笑っていた。まるで幼い子供を見るかのような視線にイラっとする。確かにハンジから見たら、私なんて子供なのだろうけど。
普段面倒を見てやっている側としては何だか気に食わない。そうやってケラケラ笑いながら紡がれる言葉に、自分が嬉しくなっているのも認めたくない。
ーーバシッ。
「痛っ、何するのさユキ〜」
『ここ、間違ってる。直して』
「…はぁ〜い」
書類をハンジの額に叩きつけ、目の前に突き出して直させる。素直に直したハンジから書類を奪い、リヴァイに一早く届けるために部屋を出ようとする。
『次の書類の期限は守ってよ』…と言い残して扉を開いた時、ハンジがポツリと呟いた。
「ユキ、変わったね」
『…変わった?どこが?』
「前より柔らかくなった。何というか、人間らしくなったよね」
『…』
一度だけ振り返って、また扉と向き直る。
『人の事を過大評価するのは勝手だけど、せいぜい裏切られないように気をつけな。私みたいな人間を信用しても碌なことにならないよ』
それだけ言い残し、ユキは後ろ手に手を振って部屋を後にした。
その小さな背中に、
ハンジは小さく溜息をつく。
「本当に、変わったよ」
ここに来た当初は誰も信じない、この世界は自分しかいない…っていう瞳をしていたのに。
表面では笑っていてもその瞳は目の前の景色ではない、自分たちとは違うどこかを捉えているようだった。
他人の心に踏み込んでも、絶対に自分のテリトリーには踏み入れさせない。絶対的な壁を作り、ユキは他人と一線引いていた。
今でもそれは変わらない。だけどいつからだったかユキは、自分の周りに作っていた壁にほんの少しだけ隙間を作るようになっていた。
それは恐らくリヴァイの影響を受けてのことだろう。同じ地下街出身の彼の様子を見て、自分も少しは人を信じていいのかもしれないと彼女なりに考えた結果だ。
少し、…ほんの少しだがユキの見せる笑顔が変わった。
…特にリヴァイの前では、張り詰めている気を緩めたように柔らかく笑うのをよく見かける。その影響で自分に向けられる笑みも、少しだけ柔らかくなったのだ。
それが自分の力ではなく、リヴァイによって成されたということが分かっていても嬉しかった。
いつもと違う笑顔を向けられる度、その不器用な優しさのある一面を見せる度。彼女が人間に近づいて行くようで嬉しいのだ。
ユキは本当は、優しい子なんだと思う。
ただ、過去が彼女の心を縛り付けているために周りの人間に怯えていて、自分の本当の姿を出せていないだけだ。
それを引っ張り出しているのは、紛れもなくリヴァイだ。彼自身、全く自覚も無ければユキも自覚していないというところが、また面白いところでもある。
「…また怒られないうちに次の書類でもやっておこうかな」
ハンジは小さく呟くと、再び机に向き直った。