空色りぼん

□人形
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『さっき撃ったのは相手の肩と足だから殺してないよ。いくらゴロツキ相手の正当防衛とはいえ、調査兵団の副兵士長が殺しはまずいでしょ?』


そう言えば、ペトラは困ったように笑った。


「この状況でそこまで考えているユキはさすがとしか言いようがないわ。それにあの距離で相手の急所以外を撃ち抜けるところもね。あなたがどうしてそんなに拳銃の扱いに長けているのかは今は聞かないでおくわ」

『そうしてくれると助かる、とりあえず先に進もう。階段が見つかったら降りてすぐ窓から飛び降りれば……』


そう言いかけた直後、ドクンと大きく心臓が波打った。なんだと状況を確認するため足を止めれば、膝から崩れ落ちるように足の力が抜ける。


『…けほ、っけほ!』

「ユキ、…ユキ!?」


突如訪れる息苦しさに手のひらで口を覆うと、ぼたぼたと赤い液体が手を染めていった。私の名前を呼ぶペトラの声が遠くに聞こえる。

頭がふわふわと浮いているような感覚に、胸を襲う締め付けと息苦しさ…この感覚を私は知っている。


ーー…毒だ。


馬車からここに来るまでに嗅がされたあれか。睡眠薬とは違う匂いがすると思ってはいたが、やつらは本気で私を逃がさないように対策を打っていたらしい。

咳き込みながらペトラに視線を向ければ、何も異常はないようで安心する。

ヒューヒューと正常とはかけ離れた呼吸音が鳴り、視界も霞んでいる。…だが、動けないほどじゃない。

奴らは私を取引に使うと言っていたから殺すためのものではないのだろう。一時的に足止めをするような軽いものだ。

駆け寄って背中をさするペトラの手を『大丈夫』と言って離し、ゆっくりと立ち上がって小窓を覗けば馬車が停まっていた。

さっき自分たちが乗せられてきた馬車じゃない。…となると、取引相手とやらだろう。…最悪のタイミングだ。


『…っ、先に進もう』

「何を言っているの!?そんな身体じゃ無理よ!」

『馬車が来てる、取引先の相手とやらかもしれない。私は大丈夫だから』

「大丈夫なわけないでしょう!?こんなの酷すぎるわ…」

『ペトラ、聞いて』


私の手を掴んで離そうとしないペトラに向き直り、唇を噛み締める彼女の瞳を真っ直ぐに見つめる。

そうすればペトラはその揺れる瞳をゆっくりと上げ、私と視線を合わせた。


『確かにこれは毒だけど、私を殺すためのものじゃない。それに大丈夫と言ったのも嘘じゃない、私は多少毒に耐性があるからこの程度なら動ける』


真剣に訴えかければ、ペトラは表情を歪めながらも「色々聞きたいことはあるけど、…分かったわ」と渋々頷いてくれた。


『ありがとう』と言った時、階段の下の方から複数の足音が聞こえてきた。これ以上はもたもたしていられない。

ペトラに言ったことは嘘ではなかった。動けないわけじゃない、今だって立って歩くことができている。

鼓動は大きく波打ち、息苦しさから変な汗が背中を伝っていくのが分かる。だが、小さい頃に悪趣味な薬を投与されたこともあって大分耐性はついている。

あの憎たらしい馬鹿な売人に感謝するときがくるとは。

グッと唇を噛み締め、階段とは別方向にある扉を開けるとそこは屋外になっていた。どうしたものかと周囲に視線を巡らせるとペトラが何かに気づいたのか「あ!」と声をあげた。


「あれ使えないかしら?」


指を指すその先には、大きな旗とそれを吊り上げるためのロープがあった。


「このロープをここから下げれば、それを伝って降りられるわ!」

『急いで準備しよう』


拝借したナイフを使い邪魔な旗からロープを切断し、ペトラと共に古城の装飾であろう石壁の突起にロープを結びつけ、地上に向かって垂らした。

都合のいいことにここは裏側らしく、今のところ人一人見当たらない。私たちの居場所もまだ把握されていないようだ。

周りは木に囲まれているし、一度この建物から出てしまえば後は夜の闇と森を利用してどうとでも逃げられる。


『早く、先に行って』

「でも」

『迷ってる暇はない。万が一、私が逃げられなかったとしてもペトラが逃げて助けを呼んでほしい。今の私にはそれができないから』


ペトラが逃げ切れれば、助けを呼ぶことができる。だが、私だけが逃げ切れたとしても走れない今の私は助けを呼ぶことができない。


『私も後から必ず行くから』

「必ずよ」

『うん』


ペトラは流石兵士というだけあって、するするとロープを伝って地上に降りて行く。私も降りようと塀を乗り越えた時、背後の扉が勢い良く開いた。


『…くそっ、しつこいなぁ』


チラリと下を見るとちょうどペトラが地上に降り立ったところだった。


「ユキ!」


異変に気付いたペトラが声を上げる。追手から見えないよう、私は背中に隠すように後ろ手で紐を切断した。これがあったらペトラが追われてしまう可能性がある。

ぽとりと落ちてきた縄を見たペトラの声が聞こえる。お願いだから早く逃げてと心の中で叫ぶ。

目の前には追手の男が4人迫ってきていた。


「仲間を逃がして自分だけ残るとは、大層仲間思いな女だな」

『目的は私なんでしょ。だったらあの子は追わないだろうし、それに悪趣味な薬なんて盛られて逃げられる気もしないしね』

「馬鹿な兵士にしてはよく頭が回るじゃねぇか」

『それはどうも』


持っていた銃の引き金を空に向かって引くと、一発の銃声が鳴り響いた。


ーーバキィッ!

相手の視線が宙に向けられた一瞬の隙を逃さず、モップの棒を男の頸に叩き込む。気絶した男の後ろに控えていた2人目の男も頸への一撃であっけなく地に伏した。


『だけど、大人しく捕まる気はないからみんな仲良く気絶してもらうよ』

「…こんッの女!」


振り上げられたナイフをかわし、背後に回り込んで首筋を棒で突く。ふらりと倒れる男の頭を踏み台にして、後ろで銃を構えている男の顎を棒で突き上げた。


『…はぁ、…はぁっ』


あと一人。

呼吸が詰まり、息が苦しい。耳鳴りがうるさく響き、周りの音が上手く拾えない。震えて上手く力が入らない指先に舌打ちをする。

この男を倒して暫く身を隠しておこうかという考えが頭をよぎる。ペトラはもう逃げられるだろうし、いつまでも帰ってこない私たちを調査兵団は探してくれるはずだ。

…まぁ、ペトラが逃げられた今、私の為だけに誰かが動いてくれればの話だが…、きっとハンジやミケは動いてくれるだろう。そういう人たちだ。

エルヴィンは団長だから私1人なんかに構っていられないだろうし、…リヴァイは、…動かないだろう。

ぼけっとして捕まる間抜けが悪いんだと呆れ顔で言いそうだ。思わず自嘲染みた笑みが零れる。

助けに来て欲しいだなんて思ったのはいつぶりだろうか…随分怠けたものだ。以前は他人なんか信用せずに自分の力だけを信じて生きていたのに。

…そうだ。自分の身は自分で守るしかない。他人に頼るなんて以ての外だ。今までだってそうやって生きてきたじゃないか。

グッと唇を噛みしめる。ぼんやりとしてきた意識が痛みによって引き戻されてきた。

軸足を中心に再び踏み込む。最後の1人に向かって地を蹴った瞬間、ぞわりと背筋を何かが走り抜けた。


『!?』


バッと後ろを振り返る。

しかし既に遅かった。伸びてきた腕は首を捉え、容赦無く壁に叩きつけられる。


『…ぐっ!』


ギリギリと込められる力に息を詰まらせながら瞳を開けた時、目の前にいる男に目を疑った。


「久しぶりだな」


[僕のところに来ないかい?]

目の前で小さく笑うのは、無理矢理連れて行かれた夜会でしつこく付きまとってきた男だった。…間違いない。

私の顔を覗き込んでにたりと嫌な笑みを浮かべると、腕を引っ張られ隣の部屋の中に引き摺り込まれる。

背中に走る衝撃に思わず咳き込んだ。ふかふかとした感触と自分を見下ろす男の光景に、ベットに組み敷かれたんだと理解する。


「やっと君を手に入れられた。あの夜会からだいぶ時間が経ってしまったな」


取引の相手というのはこの男の事だったのか。口元を吊り上げて浮かべる笑顔にただただ嫌悪感が増していく。

小さく落ちる沈黙。ヒュー、ヒューと小さく響く私の呼吸音に男は瞳を細めた。


「何か飲まされたか…頬にも殴られた痕がある。奴等への報酬は引かせてもらおう」


「痛むか?」とまるで心配するかのように男の手が頬に触れる直前、拳を思いっきり脇腹に向かって繰り出した。

しかし、完全に入ったと思った拳は手首を掴まれた事によって届くことはなくベットに押さえつけられる。


「…おっと、そんな可憐な姿でも流石は兵士と言ったところか。油断はできないな」

『…、あなたも兵士だったとは思わなかったけど』


洋服に縫い付けられている馬をモチーフにした紋章に視線を向ける。ただのおぼっちゃまかと思っていたが憲兵だったらしい。まぁ、どうせ家の力を使ったのだろうが腐っても兵士だ。

掴まれた手首を動かそうとしても全く動かない。ギリギリと力が込められ、縄を切った時の傷に相手の指が触れた瞬間、鋭い痛みが走った。


『…っ!』

「これは…、無理矢理縄を切ったのか?せっかくの美しい身体に傷をつけるなんて勿体無い。もっと自分の身体を大事にしろ」

『うるさい、触るな』

「…ふっ、気の強い女は嫌いじゃない。あの時は夜会という事もあって随分気を使っていたようだ。敬語でない君も魅力的だ」


男は手首の傷を避けるようにしたものの、腕の拘束を解くつもりはないらしい。これからどうする…?腕は拘束され、組み敷かれた状態からでは反撃もままならない。

口角を上げる男を睨みつけると私の腕を片手でまとめ上げ、もう片方の手で頬に触れてきた。ゆっくりと頬に指先を滑らせ髪をすく。

その手は優しく、私を愛でるように触れるそれに寒気が走った。


「君が僕の元に来ないというからこうして奪うしかなかったんだ。君の怖い上司の目がないうちにね」


きっとそれはリヴァイのことを言っているのだろう。この男を払いのけたのは、最終的にはリヴァイだった。


『調査兵にこんなことをすれば、いくら憲兵でも罰は免れない。それにもう門限はとっくに過ぎてるのに兵舎に戻らない私を調査兵団は必ず捜索するし、その中にはあなたの言う怖い上司も入ってる』

「たとえこの件が問題になって憲兵を辞めることになっても私は全く困らない。むしろ辞められれば面倒ごとがなくなって好都合だ。それにもうコトを済ませて仕舞えば私はそれで満足だからな」


男はそう言うなり指で私の唇をなぞる。瞳を細め、顔を近づけた。


「それにしても綺麗な黒髪だ、…こうしてすいてみたかった。白い肌に赤い唇…何より黒真珠のような瞳はまるで人形のように美しい」

『…いい加減にしてくれる?私はあなたと寝る気は無いし、友達まで巻き添えにされて殺したいほど憎んでるんだけど』

「君の友達を巻き込んだのは私じゃない、あいつらが勝手にやったことだ」

『一緒にいるところを狙わせたのはあなたでしょう?だったら同じことよ』

「怒っている顔もまたいい」

『っ』

「無駄だ」


手を動かそうにも手首が掴まれていてビクともしない。足は身体に押さえつけられて動かない。この体制になってしまったら最後、女の力では男の力に敵わない。


[お前が多少腕が立つことは認める。…だが、武器を持てばどうかは知らんが、丸腰で男に拘束されれば敵わないということを良く覚えておけ]


少し前にリヴァイに言われた事を思い出し、唇を強く噛み締める。忠告されたにも関わらず、まさに言われた通りの状況に追い込まれている自分が情けない。

あの時の忠告をちゃんと聞いていれば…もっと重く受け止めていれば。こんなことにはならず、ペトラだって巻き込まなくて済んだかもしれないのに。

リヴァイの顔を思い出し、涙が出そうになった。『助けて』と声に出して叫びたい気持ちを必死に抑え込む。

これは自分の甘さが招いた結果だ、助けて欲しいなんてムシが良すぎる。なのに私の心はリヴァイを求めてしまう。助けて、会いたい、リヴァイ以外の男に触れられるのなんて嫌だ。


「諦めろ」


男はにたりと口角を上げるとお互いの唇を合わせてきた。


「っ」


躊躇なく舌をねじ込まれ、執拗に口内を暴れ回ろうとする舌を思いっきり噛んでやると、反射的に離した男の歪んだ顔が目の前にあった。それと共に口内に自分とは違う鉄の味が広がる。


『手は出なくても、口は動かせるんだけど?』


舌を出して馬鹿にするような笑みを浮かべてやる。舌を噛み切ってやる勢いでやってやった。大層甘やかされてきたおぼっちゃまはこれで引くだろう…と思っていが甘かった。

グッと首元に手を入れられ、思いっきり締め上げ押さえつけられる。


『…ぐ、…ぅっ』

「自分の立場を分かっているのか?」


瞳を開けると男はさっきまでのおぼっちゃまの顔では無くなっていた。それは酷く見覚えのある、何度も何度も見てきた顔…人に向けられるものではなく、まるで「道具」を見下ろすような冷たい瞳。


『…か、ぁっ!』


ギリギリと力が込められていく。視界が霞み、意識が朦朧としてくる中で私は男の首の一点を見据えた。

私の首元と表情に集中している今なら拘束された腕を解いて喉元を突き上げてやることができる。我も忘れているようなこの状態なら防がれることなく必ず入る。

手で拳を作り、呼吸を整える。霞む視界で捉えられるよう瞳を細めた時、男がゆっくりと口を開いた。


「お前のような女はこうやって男に利用されるのが定めの、ただの道具だ。人形は人形らしく大人しく言う事を聞け」



ーー…ドクンッ。


心臓が大きく音を立てる。


[お前は道具だ、この先どこに行こうがそれは変わらない。死ぬまで人形のように利用され続ける定めだ]


いつかの言葉が頭の中を過った。
それは幼い頃の、遠い記憶。

暗い、暗い空間。光さえ入らないまるで牢屋のような地下室で、低く冷淡に紡がれた言葉。私を組み敷いた男が零した言葉が、酷く鮮明に写し出され目の前の男と重なった。

再び唇が合わされ、呼吸を奪われていく。絡められた舌が水音を立て、口元を微かに赤く染まった雫が伝った。



 

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