空色りぼん

□頬を伝うもの
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押さえつけられる手首も、指が食い込むほど締められている首元にも痛みは全く感じない。

自分は今何をしているのか、どこに帰ろうとしていたのか…何も考えたくなかった。思考が霞み、何かを考えようとしていたはずなのに何をしようとしていたのかも思い出せない。

身体に這わされる手に嫌悪感すら湧いてこない。振り解いた右手は自由になっているはずなのに何も考えられない。…いや、考えるだけ無駄だ。どうせ何をしようと、どう足掻こうと何も変わらないのだから。


…もう、どうでもいい。

東洋人に生まれ、親に捨てられた時点で私の人生は決まっていた。道具として好きなように弄ばれるだけだ。そしてそこから抜け出す手段もない。

ここから逃げられたって結局また同じような目に遭うだけ。道具のように、人形のように、利用され続けるだけだ。


首元を掴んでいた男の手が離され、洋服に手がかけられる。


「ぎゃぁぁ!」


ギシッとベットの軋む音が鳴った時、外から聞こえてくる悲鳴に男は顔を上げ扉の方に視線を向けた。


**
***


[2人が何者かに攫われた]


その報告を聞いてから大分時間が経っていた。馬を走らせ、ハンジと共に林を駆ける。

馬の速力さえ遅く感じるのは自分が焦っている証拠だろう。あの報告から俺は自分でも分かるほど動揺していた。

仮にも2人は兵士だ。どこかのゴロツキに捕まったところで、特にあの女が大人しくしているはずがない。今頃返り討ちにあっていてもおかしくないだろう。

…なのに、嫌な予感が収まらない。自分の勘がでたらめでないことは良く知っている。今まで地下街でも兵士になってからも、この勘には何度も頼ってきた。それが今は悪い方を知らせてくる。

そこでふと、どうしてこんな事をしているんだと思った。仮にも兵士長の俺が、どうして2人の兵士の為にこんな必死になって馬を走らせているのかと。

更に団長であるエルヴィンや分隊長2人まで出ている始末。まぁエルヴィンや他2人が必死になっているのは、ユキを家族のように思っているところがあるからだろう。

…だが、どうして自分まで必死になっている?呑気に攫われたのは油断をしたあいつの認識の甘さが原因だ。少し前に狙われやすい立場だと忠告もしている。


[巨人に食われるか…、…巨人に殺されるか人間に殺されるかの違いでしょ]


壁外調査でユキが言った言葉を思い出す。あの時あいつは寂しそうに、悲しそうに瞳を伏せていた。

いつもへらへら笑っているあの陽気な顔が、時折見せるあまりにも儚い表情が頭から離れない。その表情に一々振り回される自分はどうかしていると最近思っている。

副兵士長として近くに置くようになってから尚更だ。あいつの表情や言葉の1つ1つに振り回されている。


「…チッ、面倒かけさせやがって」


小さく舌打ちすると、隣にいたハンジが「あっ!」と口を開いた。


「リヴァイ、あれ…!」


どうやらこちらが当たりだったらしい。前方に視線を向けると女が一人走っていた。馬の勢いそのまま駆け寄ると、茶色の髪を靡かせたペトラが呼吸を荒くしていた。

しかし、それはペトラ一人だけでもう一人の姿が見当たらない。


「無事だったんだね!良かった…!」

「ハンジ分隊長、それに兵長まで…ッ!」


ハンジは馬を降り、ペトラに上着をかけてやる。


「悪いが呑気に話している暇はない。ペトラ、あの馬鹿はどこだ。どうしてお前は一人でいる。」

「ユキはこの先の古城に…っ私を逃がして一人で残っています!」

「…チッ」

「これはあまり良くない状況だね…」


ハンジは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべると、ペトラに「一人で麓まで降りられるね?」と問いかける。当然ペトラは頷いた。


「急ごう、ユキが心配だ」

「あぁ」


馬に乗ったハンジを確認し、再び馬を走らせる。ペトラの言う通り少し進むとその古城はすぐに姿を現した。


「…で、これからどうするの?」

「決まってんだろ、正面突破だ」

「え、嘘!?裏側から回り込むとか作戦とか何かないの!?」


スピードを緩めたハンジとは対照的に、リヴァイは表情一つ変える事なくスピードを上げる。

そのまま見張りのいる正面へ駆けるリヴァイは、ナイフを振り上げる男二人をあっさりと気絶させた。


「まどろっこしい事は得意じゃねぇ」


ドカンと扉を蹴り開け、リヴァイは躊躇なく進んでいく。ハンジが馬を繋ぎ後を追うと、既にリヴァイは向かってくる男たちを蹴散らしていた。

さすがは人類最強の兵士長というべきか、その攻撃には全くと言っていいほど容赦がない。次々と壁へ、床へと叩きつけられていくゴロツキを見ていると何だか可哀想になってくるくらいだ。


「!」


角を曲がったところでリヴァイの足がぴたりと止まる。どうしたんだろう?と顔を出すと、既に男達が数人地面に転がっていた。


「…これって」

「あいつだろうな」


リヴァイの視線が倒れている男の首元に向けられる。そこには、棒状の物で強く叩かれたような痣が残っていた。

相手の急所を的確に狙って気絶させている。こんが芸当ができるのはユキしかいない。


「なんだてめぇら!」

「…チッ、またうるさいのが湧いて出やがった」


新たに出てきた男達にリヴァイは舌打ちを零し瞳を細める。視線だけで刺し殺されそうなその迫力に、男たちは一歩後退った。


「あいつはどこにいる」

「…っ」

「答えろ」


隣にいる私でさえも背筋に寒気が走る。なかなか答えない男達に拳が沈んだのは僅か数秒後だった。

そろそろこの男も限界だ、焦りが隠し切れていない。普段だったら気絶させずに締め上げて居場所を吐かせていたはずだろうに、目の前にいた男たちはみんな意識を手放してしまっている。


どうしたものかと思った直後、ガタンと物音が聞こえてきた。リヴァイも同じように気づいたらしく、一つの扉に視線を向けたと思った途端にその扉を勢い良く蹴り飛ばした。


…バァァンッ!
と、派手な音を立てて扉が開かれる。

しかし、リヴァイは部屋の中に視線を向けたままピタリと足を止めた。その様子に疑問を持ちながら後ろから覗き込んだハンジも、大きく目を見開いて固まった。


「…なんだ?今取り込み中だ。」


薄暗い部屋の奥。軋むベットの上では、見るからに貴族風の兵士が小さな少女を組み敷いていた。あの零れるような黒髪と微かに見える細い手首は間違いない、…ユキだ。

まさに今脱がすところだった、という手を衣服から離し男はリヴァイに視線を向ける。


「そこで何をしている」

「まさか、もう見つかってしまうとはな」


男の返答にピリッと空気が張り詰めるのを感じた。

やばい、とハンジは思う。
リヴァイの纏う雰囲気が変わった。

いつもの冷静さは欠け、焦りや怒りではない。…これは殺気だ。

背中からでもそれが痛いほどに伝わってくる。いつもより低い声は地を這うように冷たく響き、同じ空間にいる私でさえも手先が震えそうになるほどの迫力だ。


「そこで何をやっていると聞いている」

「男と女がベッドの上でやることと言ったら1つしかないだろう」


リヴァイの瞳が男の服に飾られた紋章を捉える。さすがの男も自分に向けられている殺気を感じ取り、額に汗を滲ませた。


「お前は前にこいつにちょっかいを出していたパトロンの息子か。まさか憲兵団の兵士だったとはな」

「…、…君が中々渡そうとしないから無理矢理奪ったのさ。君も分かるだろう?彼女がどのように扱われるべきか」

「どのように扱われるべきか、だと?」

「この整った容姿に東洋人独特の美しい黒髪…ここまで可憐な女を兵士にしておくのはもったいない。貴族として着飾らせておくのもいいが、道具として男たちにまわしたほうが世の男のためだろう?」


「なぁ?」と問いかける男に、ハンジは拳をミシッと音を立てるほど強く握りしめる。


(…殺してやるッ!)

目の前の男はユキを攫って無理矢理抱こうとしたことは疎か、私の親友を男の性欲を満たすための道具と言った。

男の元に行こうと足を一歩踏み出すと、それより先に隣にいたリヴァイが先に足を踏み出していた。

ツカツカとリヴァイはベットへと足を進めていく。そしてそのまま「ヒッ」と情けない声を出す男の胸倉を掴み床に叩き落とした。


「…ぐぁッ!」


床に転がった男の腹部にリヴァイの足が容赦無く沈む。そのまま2回、3回と蹴りを沈められ男は苦しそうに声を振り絞った。


「何故分からない!?お前も男ならわかるだろう!?…ぐあぁッ!」


頬骨を蹴り飛ばされ、先程まで威勢の良かった男は涙目になりながら自分を見下ろすリヴァイに向かって情けない声を出す。


「わ、…悪かった…彼女は返すから許してくれ!彼女にはまだ手を出していない!」

「お前は随分と甘やかされて来たようだが、…俺はお前を甘やかすつもりは微塵もない。」


バキィッ!と再び鈍い音が響く。


「良く聞け、クソ野郎。お前が手を出したのはうちの副兵士長だ。…迂闊に手を出し「道具」と言ったことを身を持って後悔してもらおうじゃねぇか」

「…ひっ」


恐ろしく冷たい光を灯したリヴァイの瞳が暗闇で揺れる。そして拳を振り上げ男を殴り始めた。


何度も何度も、部屋の中に嫌な音が響き渡る。「もっとやれッ!」とその光景を見ていたが途中でハッと我を取り戻し、振り上げられたリヴァイの拳を止めた。


「…、…離せ、クソメガネ」

「…気持ちはすごく分かるし私だって殴りたい気分だよ。だけどこれ以上やったら死んでしまう」


リヴァイの鋭い視線が向けられる。彼の拳が振り下ろされていた男の顔を見ると、既に口から流血し白目を剥いて気絶していた。

リヴァイの力でこれ以上やったら、本当に死んでしまうだろう。視線だけで殺されそうな瞳を向けられても、ここで引く訳にはいかないとハンジは彼の手を止める拳に力を入れる。


「離せ、こんなクソ野郎に同情する必要もねぇだろ」

「冷静になって、この男が死んでも君に利益は一つもない。…私はまだリヴァイと一緒に調査兵団をやっていたい。ユキだって自分のせいで君が罪に問われるのを望んではいないよ」

「…」


少しの沈黙の後、リヴァイは男からスッと身を引いた。


「オイ」


そして踵を返すとベットで寝ているユキの細い腕を掴み、グイッと上体を起こさせる。


…酷い状態だった。

衣類が乱されたのは僅かだったが、流血する両手首と首元にはくっきりと指の痣が残っており、腹部や背中には殴られたような痕跡がある。頬まで赤く腫れている始末だ。

更に『ヒュー…』と微かに零される呼吸音に何か害のあるものを飲まされたという事はすぐに分かった。口端から零れたであろう血の跡は、殴られたのが原因なのかそれとも薬が原因か特定もできない。

ユキの黒髪がさらりと肩から零れ落ち、それによって影になった彼女の表情は伺うことはできなかった。


「人に迷惑かけやがって、お前はなに呑気に捕まってやがる」

『…』

「ちょっとリヴァイ」

「お前は黙ってろ」


刺すような低い声で言われ、あまりの威圧にハンジはグッと口を閉じる。


「エルヴィンもミケもだ、お前たちが下らないことに巻き込まれたせいで必死に探し回ってる」

『…』

「お前はどうして反撃しなかった?お前ならやれただろう」


返事をしないユキにリヴァイは舌打ちをする。

こいつならどこかで反撃することができたはずだ。それなのに俺たちが入って来た時は、そんな素振りすら見せず黙って組み敷かれていた。

ベットにぽとりと置かれていた右手がその証拠だ。その手で腹を殴るなり、首を突き上げるなりできたはずだった。

小さな沈黙が落ちる。それでも俯いたまま口を開こうとしないユキに、ぷつんと自分の中の何かが切れた音がした。ギリっと歯を噛み締め、掴んでいた腕に力を込める。


「どうして黙って組み敷かれてたんだって聞いてんだ!」

『…』

「リヴァイ…!」

「お前ならなんとかできただろう!」

「リヴァイッッ!!」


苦しそうに絞り出されたようなハンジの叫び声にハッと意識を戻す。


「今は責めてる場合じゃないでしょう…?」


ユキを見下ろした時、思わず呼吸が止まった。


ユキは、泣いていた。

瞳から零れた一筋の涙が頬を伝い、シーツに落ちる。

光を失い恐怖の色に染まった瞳。この世の全てを知り尽くしてしまったかのような絶望に満ちたそれは、目の前の光景ではなくどこか遠くを見つめていた。

…まるで壊れた人形だ。表情を少しも歪めることなく、ユキはただただ涙を流している。

遠い過去の記憶を見ているようなその様子に、やっと気がついた。ユキは自分の過去の記憶と重ね合わせ、何もできなくなってしまったのだと。

普段ならできるはずのことを過去の記憶である恐怖や悲しみ、苦しみがそれをできなくさせていた。

ユキは最大のトラウマである過去の記憶を抱えながらも、それを感じさせないようにいつもへらへらと笑っていた。だからたまに忘れてしまいそうになる。…ユキがこんな呑気に笑っていられるような人生を歩んできていないことを。

ユキから感じるあの今すぐにでも消えてしまいそうなほどの儚い雰囲気は、ユキが無意識に隠している過去の記憶のせいだと分かっていたはずなのに。


掴んだユキの手は小さく震えていた。


「…もっと他にやってあげることがあるんじゃないの?」


ポツリと呟かれるハンジの言葉に、俺は無意識にユキの身体を抱き寄せた。初めて抱き締めた身体は見た目以上に小さく、いとも簡単に腕の中に収まった。

いつもなんでもないように強がっていたユキは、こんなにも小さく弱々しかったのかと思い知らされる。

抱き寄せる腕に更に力を込めれば、暖かい体温に無事であったということを強く実感する。小さく震えるユキの後頭部に手を回し、ゆっくりと撫でた。


「…馬鹿が」


ぽつりと零された声が薄暗い部屋に響き渡る。

ユキの瞳から流れる涙は頬を伝い、シーツに零れ落ちていった。


 

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