空色りぼん
□焦る心
1ページ/1ページ
その体温がとても優しく、
暖かかった事を覚えている。
目の前に広がる暗闇と足元を吹き抜ける冷たい空気。この光景を私は知っている…幼い頃閉じ込められていた地下牢だ。
自分がどうしてここにいるかは分からなかった。だけど、『ここから抜け出したい』という気持ちだけはハッキリと認識していた。
鉄格子を掴んでもビクともしない。それは当然のように私がここから出ることを拒んでいる。
私の人生は、東洋人として生まれた事でもうこうなることは決まっていた。更に無責任な親は私を見放した。捨てたのか、はたまた売ったのかは分からない。
身寄りもなく、家族もいない私は利用され続けるしかなかった。
私はぺたりと冷たい床に腰を下ろす。この暗い空間から出る事を諦めた。どんなに足掻いたところで、自分のこの髪と瞳が変わるわけでもない。
どんなに足掻いたところでこの鉄格子が無くなるわけでもなく、自由で幸せな人生は訪れることはない。
この世界は、
…酷く残酷だ。
私は自分の身体を抱き締める。だが、ちっとも暖かくならなかった。寒さと恐怖が心を支配してどうにもならない。
「…馬鹿が」
その時、身体が暖かい何かに包まれた。
耳元で零された聞き覚えのある声にゆっくりと顔を上げる。しかし見えたのは白いシャツだけで、他には何も見えなかった。
だけど自分の身体に回された腕がとても優しくて、まるで壊れものを扱うようだったことを覚えている。
そしてその体温が暖かく、とても心地よかったのも。なによりそれは私に感じたことのないような安心感をもたらした。
私はあの冷たい部屋から抜け出せたんだ。暗い地下牢ではなく、ジメジメとした空間ではなく…
その手は明るい外の世界へと私を連れ出した。
私は、自由になったんだ。
そう思った直後、
私の意識はそこで途切れた。
**
***
ゆっくりと瞳を閉じたユキの体からは力が抜け、リヴァイはそれをしっかりと抱きとめた。
リヴァイが自分の体から少し離して見てみると、ユキはまるで死んでしまったかのように静かに眠っている。耳を寄せれば微かに呼吸をしているのが分かりホッと息をつく。
「とりあえず医務室に連れて行こう。殺す目的のものではないとしても薬を投与されたのは心配だ。他にもあちこち怪我してるしね」
「あぁ」
「こいつは任せて」
ハンジは流石は分隊長と言うべきか、床で伸びている男をずるずると引きずり始める。
普通は逆だろう、と言おうとしたのが分かったのかハンジは「ユキは君が運んであげなよ」と言った。
「…」
ハンジは先にスタスタと歩いて扉を出て行く。リヴァイは自分の腕の中にいるユキに視線を落とすと、膝裏と背中に腕を回して抱え上げた。
思った以上に軽い身体に少し驚きながら自分が蹴散らしてきたゴロツキ達が転がる廊下を通り抜け外へ出ると、馬に乱暴に男を乗せたハンジがプッと笑った。
「リヴァイがお姫様だっこしてるよ!」
「黙れ」
どうしてこんな時に笑える。…まぁ、それがこいつのいいところでもある。俺からしたらうざいだけだが、こいつもユキの安全を確認できて安心しているのだろう。
眠るユキを前に乗せ、自分の胸に頭を預けさせるようにして二人は兵舎へと戻った。
**
***
「このまま安静にしていれば大丈夫でしょう」
医務室のベッドで眠るユキに医者はそう言い、周りの人間は安堵のため息をついた。
今回ハズレを引いたエルヴィンとミケには早馬でユキが無事だという事を告げると、それこそ飛ぶような速さで戻ってきて今一つのベッドを囲んでいる。
「本当に無事で良かった」
エルヴィンは小さく呟くと、静かに眠るユキの頭を撫でた。
調査兵団の団長をもここまで心配させるとは、やはりユキは大した人間だと改めて思い知らされる。
「…すみません、私のせいでこんなことに…」
ぽつりと呟いたのは今回ユキと共に捕まったペトラだった。
無傷だった彼女は一緒になって医務室に来ていた。その表情は当然明るいものではない。
「どうしてお前が謝る」
リヴァイの低い声に、ペトラは少しだけ肩を震わせた。
「…ユキが捕まったのは私のせいなんです。…ユキは自分を襲ってきていた男を蹴散らしていた…、なのに私が捕まったせいで相手についていくしかなかったんです」
「…だとしても、それはこいつの甘さが招いた結果だ。自分が狙われやすいと分かっていて油断していたんだからな」
「…でも」
「俺はうじうじ反省されるのは好きじゃねぇ」
「…はい、…すみません」
低い声で言い放たれた言葉に、ペトラは何も言えず口を閉じ下を向く。
全く、どうしてそんなにきつい言い方しかできないのかとその場にいた人間は思った。
つまりは「お前のせいじゃない、気にするな」という事なのに彼が言うととてもきつい言葉に聞こえる。
リヴァイは小さく舌打ちをすると、エルヴィンに向かって口を開いた。
「…それより、あの野郎の処分はどうなる」
「今は別室で繋いである。明日の朝中央に突き出すつもりだ」
「中央に突き出したところで処分は下されるのか?こいつは家の力を使って憲兵になったおぼっちゃまだろう、金で曖昧にされるかもしれねぇ」
リヴァイは眉間に皺を寄せた。
「それじゃ足りねぇ、あのクソ野郎には其れ相応の処分を受けてもらわなきゃ気がすまない」
「あの男がしたことは、さすがに貴族の力を使ってもカバーしきれないだろう。最低でも憲兵としての資格は剥奪される」
そうなった所であの男は困りはしないだろう。兵士を辞めたら自分の家の金で暮らせばいいだけなのだから。
「…気に入らないな」
「それは私も同じだ。」
だが、我慢するしかないのも事実だ。この壁の中ではこれ以上の罰を与えることはできない。
全く、組織というものは面倒臭くてしょうがない。
「まぁ、それをネタにしてパトロンを揺すって融資を絞れるだけ絞ることはできるだろう」
「うわ、さすがエルヴィン。それはいい、とてもいい案だよ」
ハンジはポンっと手を叩いて口角を上げる。巨人に対する笑みではない、悪巧みしている時の顔だ。
「…あのクソ野郎が目を覚ましたか様子を見てくる」
「待て、リヴァイ」
部屋を出て行こうとするリヴァイを、エルヴィンが呼び止めた。
「なんだ」
「君はユキの側にいてあげなさい」
リヴァイの瞳が、何か言いたげに細められる。しかしその鋭い視線に慣れているエルヴィンは平然と続けた。
「ユキが目覚めた時に君がいれば安心するだろう」
「…何を言ってやがる、…俺は」
「いいじゃない。それともユキよりあのクズ野郎の寝顔を見ていたいっての?」
「…」
「あの男の方は私たちに任せてよ」
そう言うとエルヴィン、ハンジ、ミケは席を立ち上がり遅れてペトラも立ち上がった。
部屋を出て行く4人の背中に視線を向ける。すると、ハンジがくるりと振り返って笑った。
「手出しちゃダメだよ、怪我人なんだから」
へらへらと笑って出て行くハンジに「誰が手なんか出すか」と睨みつけるが、あっと言う間に扉の向こうへ消えて行った。
…静寂が落ちる。
先程とは打って変わって静かになった部屋で、リヴァイは再び椅子に腰を下ろす。
『…』
「…」
ベッドで眠っているユキは相変わらず瞳を閉じ目覚める気配はない。先程まで投与された薬のせいか少し苦しそうにしていたが、今では落ち着いたようで安心する。
窓から入ってきた風が、白いカーテンをふわふわと揺らす。
そこからは淡い月明かりが差し込んできていて、ユキの白い肌を妖しく照らし出している。頬に痛々しく当てられたガーゼに手を伸ばし、無意識にそれを指先で撫でた。
ユキが攫われたと聞いたとき、ガラにもなく焦った自分がいた。
それはあの古城に向かっている間も、古城の中でゴロツキを蹴散らしている時も収まることを知らず増大していく一方だった。
馬を走らせ、森の中でユキと出かけて行ったペトラを見つけた時「何故ユキがいない」と思い少々強い口調でペトラを問いただした。
そしたら「ユキは自分を逃がすために残った」とぬかしやがる。…思わず舌打ちが零れた。
何をやっているんだあいつは、何を考えてやがる。気づいた時には無我夢中で馬を走らせ、古城に乗り込みゴロツキ共を蹴散らしていた。
どうして自分がここまでしているのか。どうして自分は柄にもなく焦っているのか。
そんな考えが頭を過り、ユキが時折浮かべる儚い笑顔が思い浮かんだ。寂しそうに、悲しそうに笑うその表情が頭を離れず、体が勝手にユキを探した。
そして、その黒髪を見つけた時。
…頭が真っ白になった。
そして直後に沸いてきたのは怒りだ。
ベッドに組み敷かれ垂れ下がる黒い髪。白いシーツに放り出された手。
「この男を殺してやる」
それだけが、自分の意思を支配した。
胸倉を掴んで床に放り投げ只管に殴りつける。ユキを「道具」と言ったこいつを本気で殺してやろうと思った。
ハンジに止められていなければ本当に殺していただろう。気がつけばその男は白目を向いて気絶していた。
その光景に、すーっと自分の中の怒りや焦りが引いていったのがわかった。次第に冷静さを取り戻した俺の怒りの矛先は、ベッドに転がっているユキに向かう。
腕を掴んで無理矢理起こさせれば、手首は真っ赤に染り、腹や背中には殴られた跡があった。頬に至っては赤く腫れ、薬を投与されたのか呼吸音までおかしくなっていた。
…そうだ、何故こいつは黙ってされるがままになっていた?
扉を開けた瞬間見えたのは、男がユキの上に跨っている光景だった。
しかし、問題は何の抵抗もせずシーツに置かれていた右手だ。抵抗しようと思えばできたはずなのにどうしてしなかった?
ユキが強いことは充分に知っている。少なくとも黙って組み敷かれ、されるがままになるような女ではないはずだ。男と女に力の差があるとはいえ、ユキの右手は自由になっていた。
例え多少の怪我をしていようとも、自分が知るこいつはそんなに簡単に人の手に落ちるような奴じゃないはずだ。
「どうして反撃しなかった」と問いかけても返事はない。俯いたまま顔を上げることもなければ、口を開く気配も全くと言っていいほどなかった。
その態度に再び自分の心の中に、確かな怒りの感情が芽生えたのをハッキリと感じた。
「別に死んでもいい」とでも言うかのような頃のユキを思い出し、まさかこいつはまたそうやって自分のことを「どうでもいい」と考えているのかと思った。
…だが、そうではなかった。ハンジに名を呼ばれ我に返った時に見た光景に、大きく目を見開いた。
ユキの瞳からは大粒の涙が頬を伝っていた。
光を一切灯していない瞳から零れる涙に一瞬、時が止まったような感覚に包まれる。…気づけばユキの身体を抱き締めていた。
腕の中に感じる暖かい体温に無事を実感した瞬間、無事で良かったと自分の心が酷く落ち着いていくことに気がついた。
生きていてよかったと、また自分の元に帰ってきて良かったと心の底から思った。
小さく震えていた体を更に抱き寄せた時、自分の中でユキがただの部下ではないことに気がついた。
思えばユキがする一つ一つの仕草を一々目で追ってしまう自分がいる。ユキが悲しそうな表情を浮かべる度に、滅多に動く事のない俺の心はこれでもかというほど揺れ動く。
その表情が頭から離れず、結果こいつに何かがあった時は我を失ったように焦るはめになった。
些細な言動や表情にこんなに心を動かされるのはユキだけだ…こいつが笑えば安心し、泣きでもすれば心臓が締め付けられたような息苦しさに襲われる。
気づけば揺れる空色のりぼんを目で追っていて、悲しそうな顔ではなくいつでも笑っていて欲しいと思っている。他の人間の側ではなく、自分の隣にいて欲しいと思っている。
ユキを自分の手で護ってやりたいと思っている。
この感情がどういう感情なのか、
分からないほど子供でもない。
俺はいつの間にか、
…こいつに惚れていた。