空色りぼん
□触れる指先
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ベッドに眠るユキの頬に触れ、ゆっくりと撫でる。ザラザラとした包帯の感触に思わず眉根を寄せた。
首にしっかりと残っている指の痕も身体を殴られた痕も痛々しく、見ているだけで胸が締め付けられる。
「心配かけさせやがって」
自分の心配とは裏腹に、いつも周りを惑わす瞳は今は伏せられ静かなものだ。
手を頬から額に移し、そのままゆっくりと小さな頭を撫でた。さらさらとした黒髪が指の間をすり抜けていく。
いつからだったか、…ユキをこんな風に思ったのは。
巨人の首を切り落としたこいつを追って、あの夜の街で捕まえて…そして兵士になったこいつはいつのまにか副兵士長としていつも俺の側にいた。
始めはへらへらと軽いやつだと思っていたが、その合間に見せる一瞬の表情に気付いた時から自然と目で追うようになっていた気がする。
あまりに不安定で儚いその瞳の理由を知っていたからかもしれない。親も身よりもない東洋人がどうなるかは、地下街にいた自分には痛いほど分かっていた。
だが、それだけで自分が他人にここまで干渉することはない。所詮他人は他人だ。なのにそうしなかったのは、自分の中にあったこの感情のせいだったのだろう。
思わず自嘲染みた笑みが零れた。
「…オイ、起きろクソガキ」
しかし、ユキは起きない。人の気も知らねぇで呑気に夢の中だ。
「もう俺の側から離してやるつもりはねぇから、覚悟しとけ」
リヴァイは静かに立ち上がると、瞳を閉じて眠るユキの額にキスをした。
**
***
瞳を開くと眩しい光が差し込んでくる。
もう朝か…と思った時、隣から物凄い勢いで身を乗り出してきた二人と目があった。
「「ユキ!!」」
『!?』
え、え、何この状況。
目を瞬かせると、自分を覗き込んでいるのはハンジとペトラだった。
どうして二人が私の部屋に?あれ、っていうか私の部屋じゃない。見渡してみるとどうやら医務室のようだった。
『…あれ、私』
「よかったぁぁ目を覚まして!体の具合はどう!?意識はしっかりしてる!?」
『…いや、だからどうし』
「私のことわかる!?まだ体は痛むかい!?」
問いかけようとして口を開くが、間髪入れず質問責めにするハンジに言葉を返す暇もない。…というか、質問しといて更に質問を重ねるな。
「心配したんだよ、本当によかった」
『なんでそんなに必死なの?…と、言うかどうして私ここにいるの?』
手の甲で目を擦りながら言うと、二人は「…え」と顔を見合わせる。
深刻そうなその表情に昨日の出来事を思い出した。…あぁ、そうだ、私はゴロツキに捕まったんだ。正確に言えばあのパトロンの息子にだが。
『あぁ、ごめん。思い出した』
「…、それで体調の方はどう?」
『もう大丈夫だよ』
殴られた身体中は痛むし手首には痛々しい包帯が巻かれている。だが、あの時服用された薬はもう残っていないようだ。
薬と違って痛みは我慢できる。
特に大きな問題ではない。
ハンジの隣にいるペトラに視線を向けると、心配そうな表情を浮かべていた。あの後無事に逃げられたんだと分かり、ホッと胸を撫で下ろした。
『ペトラは大丈夫?なんともない?』
「お陰様で私はなんともないわ、それよりユキは自分の心配をして」
『ううん。よかった…、…ペトラ、本当にごめんね』
そう言うとペトラの表情が悲しそうに歪んだ。
「逃げている時にも言ったけど、ユキのせいじゃないわ。…自分がそんなに怪我をしているのに私の心配なんかしないで」
『…ありがとう』
そして、私はハンジとペトラにあの後どうなったのかを教えてもらった。ハンジとミケ、そしてあのエルヴィンとリヴァイまでが動いてくれたということ。
二手に分かれて当たったのがハンジとリヴァイで、意識を失った私をここまで運んできてくれたらしい。
今回の首謀者であるあの男は今朝早く中央に引き渡された。どんな処分が下されるかは分からない。
『…そう』
男に組み敷かれた時、微かに誰かが入ってきたのが分かった。だけど、それがリヴァイとハンジだったのは覚えていない。
ただ、目の前に広がる暗闇から誰かが引っ張り出してくれたのは覚えている。
…それはまさか、
と、思った時部屋の扉が勢い良く開いた。
「目を覚ましたのか」
『エルヴィン、…ミケまで』
扉を開けて入ってきたのはエルヴィンとミケで、二人とも酷く安心したような表情を浮かべてくれた。
ハンジがエルヴィンが珍しく慌てていた、と言っていたが今でも信じられない。
このエルヴィンが、だ。巨人の大群を目の前にしても、相当なことがなければ冷静さを欠かないエルヴィンが、…まさかね。
「大事にならなくて本当によかった」
『ありがとう、心配かけてごめんね』
そう言うと、エルヴィンはいつもの笑みを浮かべて私の両手首に巻かれた包帯に視線を落とし、腫れた頬を労わるように撫でた。
「今日は休んでいなさい」
『私は大丈夫だよ、エルヴィン。それに昨日休んだ分も溜まってると思うし』
「リヴァイには言ってあるし、了解もしている」
リヴァイ、という言葉にぴくりと反応する。それを見たハンジが口を開いた。
「リヴァイはねぇ、一晩中ユキに付きっきりだったんだよ」
『え、リヴァイが?』
「そうだよ、あまりにも心配そうな様子だったからここにいなってエルヴィンがね。結局朝になっても目を覚まさなかったから今は私たちと交代して部屋で休んでるよ」
ハンジは「ふふふ」と気色悪い笑みを浮かべた。
一晩中つきっきりで?
…あのリヴァイが?
心の中の感情が表情に出ていたのか、ミケが小さく笑った。
「本当だ、今朝もなかなか部屋に戻ろうとしなかった」
『…本当に?信じられないけど』
「私たちだって驚いたよ」
あのリヴァイが助けに来てくれた。その上、一晩中付き添っていたなんて信じられないがミケが言うなら本当なのだろう。
あとでお礼を言わなくちゃいけない。…きっと怒られるだろうけど。
そしてみんなはそれぞれの仕事の為に席を立った。
「絶対に安静にしてるんだよ!」とか、「また夕方会いにくるからね!」…なんて言いながら。
もう私は子どもでもないのに、どこまで心配性なんだあの人たちはとため息をつく。外を見ると太陽の光がキラキラと降り注ぎ、穏やかな風がカーテンを揺らした。
みんなはこれから訓練へ向かうのだろう。暫くしてから私はベットから降りて自室へ向かった。訓練中の時間帯ということもあって廊下では誰ともすれ違わずに済んだ。
団服に着替え、身なりを整える。やはり動くたびに身体の至る所が痛み、舌打ちをする。だが我慢できないほどじゃない。
いつも捲っている袖を下ろし、手首に巻かれている包帯を隠す。そして鏡を見た時に思わず顔を顰めた。首には本当にくっきりと指の痕が残されていたのだ。
あれだけ強く首を絞められればこのくらい痕も残るか…と指先で首元を撫でる。これでは髪を上げることはできないと、髪を下ろして何とか誤魔化す事にした。
頬のガーゼはなんともできない。他の兵士にもし会ってしまったら訓練中の事故ということにしておこう。
私は部屋を出てリヴァイの執務室へ向かう。扉を開けるとやはり部屋の主はいなかった。私に付き添っていたせいでとれなかった睡眠をとっているか、訓練に向かったのだろう。
太陽の光が降り注ぐ執務室は何だか新鮮な感じがした。普段は早くても日が沈みかけた頃からしかここにはこない。
『…うわ、やっぱり書類がいっぱいある』
積み重ねられている書類を見て思わず呟く。
私が一日休んで、しかもその日にリヴァイまで出たから丸一日分進んでいないのだ。書類が溜まるのは当たり前だった。
席につき、書類に目を通していく。ペンを持ったとき手首に走る痛みに思わずペンを落としてしまい、再びそれを拾い上げる。
リヴァイが帰ってくるまでに少しでも終わらせておこうと思い、私はただ只管書類にペンを走らせた。
**
***
ガチャリと扉が開く。あれから集中していたようで、気づけば夕方になっていた。
そうすれば当然部屋の主が帰ってくるわけで、リヴァイは私を見て珍しく一瞬固まった。
『おかえり』
「…お前、どうしてここにいる」
バタンと扉が閉められる。その声は不機嫌な時の少し低い声だった。
『溜まった分の書類片付けようと思って』
「お前は安静にしているようにエルヴィンに言われたはずだろう」
『そうだけど、私のせいで昨日リヴァイもできなかったから』
「…」
目の前に立ったリヴァイが私を見下ろす。その鋭い瞳に「…やばかったかな」と思っていると、その口がゆっくりと開かれた。
「酷いツラだな」
『…こればっかりは隠せなかった。気にしないで』
右頬のガーゼの事を言っているのだろう。暫く私を見下ろしていたリヴァイの手が私の髪に触れた。
言いたいことは分かる。珍しく下ろしているのも、首にある指の痕を隠すためだと気づいているのだ。
無意識にその指先に意識が集中してしまう。この静寂に耐えられない、なんとか言って欲しいと思っているとリヴァイはゆっくりと口を開いた。
「お前の身体はくだらない書類整理ができるほど回復してねぇはずだ。さっさと医務室に戻れ、今は養生しろ」
『私はもう大丈夫だよ。立体機動はさすがに厳しいけど机仕事くらいできる』
「駄目だ、お前の「大丈夫」は信用できない。何を心配してるのかは知らねぇが、書類を寄越さないよう言ってあるから問題ない。余計な心配してないでさっさと医務室に戻れ」
『医務室で1人で静かにしてるより、何かやってた方が気が紛れるからここにいさせて欲しいんだけど…だめ?』
そう言えば、リヴァイは眉間に皺を寄せた。
このまま医務室に戻りたくなかった。1人で何もすることがない空間にいると、昨日の出来事を思い出してしまいそうだった。
書類が溜まっているから…というのはただの言い訳で、自分の気を紛らわすためにもなにかやっていたかった。
リヴァイが心配して言ってくれてるのは分かってる。…だけど、ここにいたかった。リヴァイがいるこの執務室にいれば安心できるから…。
暫くの沈黙の後、リヴァイは私の机から処理してある書類を抱え自分の席に戻っていった。
「わかった。だが、絶対に無理はするな」
『うん』
念を押すように言うリヴァイに頷いて見せる。
「今頃お前の様子を見に行ったエルヴィンは、どんな顔をしているだろうな」
『…う』
あれだけ大人しくしていろと言われたのに、ベットは当然もぬけの殻。今更罪悪感が襲ってきた。
「あいつらがここに来るのも時間の問題だ。精々言い訳でも考えておくんだな」
そしてリヴァイは椅子に座り、いつものように書類に目を通し始めた。その様子を思わず見つめてしまう。
昨日の夜、リヴァイは私を助けに来てくれた。溜まっていた書類をほったらかして、馬を出してわざわざあんな僻地まで。
ハンジの話によるとリヴァイは正面突破し、古城にいたゴロツキ共を蹴散らしたらしい。それはもう台風のような勢いだったとか。
[あんなに冷静さを欠いたリヴァイを、私は初めて見たよ]
なんて言っていたが、どこまで本当なのか分からない。冷静さを欠いたリヴァイなんて想像できない。しかも、それが私を助けるためだなんてもっと信じられない。…あれはハンジの着色だろう。
[…馬鹿が]
でも、あの時耳元で零された言葉は間違いなくリヴァイの声だった。
それが間違いで無ければ、あの時私を抱きしめたのは…、…目の前の男ということになる。あの暖かな体温と優しい腕は、本当にリヴァイだったのだろうか。
思わず視線を向けるが、リヴァイは書類に目を通している。どうなんだと聞く勇気も当然持ち合わせていない。
思わず目元を手の甲で隠す。今の私は間違いなく顔が赤くなっているはずだ。
あの自分の背中に回された腕と、抱き寄せられた時に感じた安堵感を思い出すと恥ずかしくてしょうがない。
そしてあの時の記憶が正しければ私は、…泣いていた。いつ振りか分からない涙を、よりにもよってこの男に見られたのだ。
『…リヴァイ』
「なんだ」
『ありがとう、…それとごめん。手間かけさせちゃった上に、夜付き添ってくれてたんだよね』
リヴァイのペンを走らせる音が止まる。しかし、すぐにその手は再び動き出した。
「俺は前に言ったはずだ、油断はするなと。お前は狙われやすい立場にあると」
『…うん』
「今回はお前の油断が招いた結果だ」
『…』
ごもっともな言葉に言い返す言葉もない。
「今後同じようなことがあっても、俺は助けにいかないからな」
『分かってる』
「常に周囲を警戒しろ」
『…うん』
「俺を余計なことで心配させるな」
その言葉に鼓動が鳴り、胸が締め付けられた。リヴァイが私のことを心配してくれた…それが不謹慎と分かっていながらも嬉しいと思ってしまう自分にため息をつく。
『分かった』
「…ならいい」
あの優しい腕も体温も、きっとリヴァイのものだったのだろう。彼は本当は優しい人なのだ。ただそれが普段は表に出なくて、呆れるほどに不器用だけれど。
あの時感じた安堵感は、
この人じゃなきゃ、ありえない。
側にいるだけでこんなに安心できる人は、この人以外にいないのだから。
「お前の泣き顔なんざ、二度と見たくねぇ」
『…っ、それは早く忘れて』
どうしてこの男は、私の心を掴んで離さないのだろう。そんな不器用なくせに優しい人だから、私の心は更にあなたにのめり込んでいく。
再びペンを走らせた二人の元に、エルヴィンらがやってきたのは数分後。
ギャーギャーと騒ぎが続き、リヴァイが眉間に皺を寄せたのは数秒後だった。