空色りぼんA
□捕獲の弊害
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「…た、助けて下さい」
バタンと扉を開けて入ったきた兵士に、私とリヴァイは書類から顔を上げて視線を向ける。すると、その兵士はぱたりとそのまま地面に倒れた。
『…え、ちょっと?』
どういう事だ、これは。一言零して力尽きたように倒れる兵士に駆け寄ると、一目見ただけで顔色の悪さが伺えた。
「オイ、なんだって言うんだ」
『大丈夫?』
「…うっ」
流石のリヴァイも書類から視線を離してこちらの様子を伺っている。苦しそうに唸る兵士は振り絞るように口を開いた。
「…お、俺らにはもう手におえません…。すぐ巨人に突っ込んでいくし、飯も食べないし…風呂なんて…」
「『…』」
そこまで言われて漸く状況を理解する。そう言えばこの兵士はハンジの班に所属していたはずだ。
先日の壁外調査で巨人を捕獲して帰ってきてから、あの奇行種がずっと巨人に付きっきりだという噂は聞いていた。
だが、こっちも書類整理に追われていて他人のことなんて気にしている暇はなかったのだ。
思えば調査から帰ってきてそろそろ一週間が経つ。一度も姿を見ていないということは、つまり…。
…その姿を想像して深くため息をつく。リヴァイの眉間にも皺が刻まれていた。
「お、お願いです。…あのままだと本当に死んじゃいます…。でも俺たちだけじゃどうにも…」
「あのバカの面倒なら奴の部下がいただろう」
『そうだよ、モブリットはどうしたの?』
「今朝倒れてしまって…」
…あぁ、モブリットご愁傷様。
心の中で静かに唱える。あの馬鹿の面倒を一週間見たのだ、しかもただでさえ手がかかるのにおまけに巨人とセットだ…倒れもするだろう。
「…チッ、根性のねぇ奴だ」
『あのハンジに一週間ついてたんだよ?褒めてあげていいよ』
「過程はどうあれ途中で任務を放棄したのには違いないだろう、鍛え方が足りねぇ」
もう一度舌打ちをするリヴァイに小さく溜息をつく。あんたなんて一週間どころか一日…、いや半日も面倒見れないでしょうがと言ってやりたい。
ただでさえ気が短いのだから、間違いなくハンジを蹴るか殴るかして気絶させるという強硬手段に走るだろう。
「…お、お願いします…せめて一回くらいは風呂に入れてやって下さい…俺たちが言っても聞いてくれなくて…」
既に虫の息のような声で言われては断るわけにもいかない。チラリとリヴァイを見ると、「俺は絶対に行かない」という視線を返される。
…でしょうね。聞いてる限りハンジは壁外調査以降風呂に一度も入っていないらしい。
そんな人間に会うなんて、リヴァイは絶対に嫌だろう。
『…しょうがない』
”ちょっと行ってくる”と言い残して執務室を後にする。
全く、こっちも事後処理に追われていて忙しいというのにあの馬鹿は何をやっているんだ。
机に積み上げられている書類をどうしてくれる。今日中に終わらせるよう催促されているから、必死こいてやっているというのに。
今はお前に構っている暇はないんだと、一言文句を言ってやる意気込みで執務室を開けた。
『ハンジ、いい加減に…』
その瞬間、ぐらっと目眩が襲い足元がふらつく。
なんだ、これは。一歩踏み込めば淀んだ空気が部屋を満たし、足元には書物やらゴミやらが好き放題散らかっている。
リヴァイが見たら即退出するレベルだ、真っ直ぐシャワーを浴びるかもしれない。足の踏み場もないほどの空間に一歩、また一歩と足を踏み入れて部屋の奥へと進んでいく。
真昼間にも関わらず薄暗い部屋の再奥に、ゆらりと不気味に揺れる人影があった。
カリカリとペンを走らせる音が聞こえる、間違いなくハンジだ。
『ハンジ』
「あ、ユキ!」
呼びかけると、ハンジはキラキラとした瞳を向けて勢い良く立ち上がった。
…と、同時に足元に積まれてあった書物が音を立てて崩れ埃を舞い上がらせるが、そんなものには目もくれずにハンジは嬉々として喋り始めた。
「久し振りだねぇユキがここに来るなんて珍しい!どうしたのさ!」
『どうしたのじゃないでしょ。あんたのところの部下が倒れた挙句、分隊長を助けてくれって生き残った上司思いの兵士が泣きついてきたんだよ』
「助けるって?私はなんともないよ?」
…良く言えたものだ。
ボサボサの髪、
よれよれの服。
その容姿が彼女のここ数日の生活を赤裸々に物語っている。だが、ハンジは「そんなことよりさ!」と再び口を開いた。
「聞いてよユキ!巨人の実験をしたんだけどこれがまた面白い事が起きたんだ!まずは意思疎通を図ろうとしたんだけど…」
『私は変態話を聞きに来たんじゃない。いいからお風呂に入ってきなさい、じゃないとあんたの部下が迷惑してる』
「ええ、大丈夫だよお風呂なんて入らなくても。それよりも実験の方が大切でしょ!?」
ずいっと勢い良く押し迫ってくるハンジに、思わずぐっと後退る。
これは部下達が「風呂に入れてくれ」という意味が分かる。まさか、この部屋の異様な匂いはこいつのせいなんじゃないかと思うほどだ。
これではいくら分隊長だとしても、部下も近寄りたくないだろう。
上司の威厳云々より人間としてどうにかしなければ、と私は袖を捲ってハンジの腕を掴んだ。
「…?どうしたのさ、ユキ」
『ちょっとこっち来い…っ』
そのままグイグイと引っ張って洗面所まで連れてくると、ハンジは「えぇ、いいよお風呂なんて」と部屋に戻ろうとする。
…が、それを強引に引き戻して蛇口を最大まで捻り、問答無用で首元を掴んで洗面台に顔面ごと突っ込んだ。
「ぶっ…!…な、何するのさユキ!」
『うるさい!黙って大人しくしてろ!』
洗面台に突っ込んだ頭に水を直接かけて濡らしていく。このまま洗うには髪を縛っているゴムが邪魔だと取ろうとしたが、これがまた簡単には外れてくれない。
複雑に絡まった髪が邪魔をしている。無理矢理引っ張ろうとするが、何故か粘着質の物体が引っ付いていて全く外れる気配はない。
っていうか何だこれ、よくこんな状態になるまで放っておけたな!
「冷たい痛い苦しい!」
『自分が悪いんでしょ、この髪ゴム切るよ』
ほどくことを諦め、鋏でぱちんと髪ゴムを切る。絡まった髪も若干一緒に切ってしまったが、こうなってしまったら多少の犠牲はしょうがない。
切ったはずなのにも関わらず、絡みついた髪が指に纏わり付いて離れない。
『…ぐっ』
こうなったら強行突破だ。指に絡みついたまま、わしゃわしゃと髪をすすいでいく。
ハンジの髪を通して流れる水の色が少し可笑しいのは見て見ぬフリだ。
シャンプーを大量にかけてわっしゃわっしゃと強引に洗っていくが、これがどういうわけか一向に泡立たない。
「うぎゃぁぁ目に入ったぁぁ!」
『我慢する!』
これはもうダメだと一回洗い流し、再びシャンプーをかけて洗っていくのを繰り返す。
途中で「苦しい!」と言いながら上げようとする顔を、後頭部を押さえつけて洗面台に入れさせる。
こんな状態で起き上がられたら床も掃除しなきゃいけなくなる上に、私の足も汚れる。
そんなのは御免だと、強引に洗面台に顔を突っ込ませてシャンプー、濯ぎ、シャンプー、濯ぎをひたすら繰り返した。
暫くするともこもこと漸く泡が現れてくる。ホッと小さく溜息をつくと、洗面台に顔を突っ込んだままハンジが呟いた。
「気持ちいー」
『調子にのるな』
「痛っ、…分かってるよー」
そう言いながらヘラヘラ笑うハンジをぺしっと叩く。本当に分かっているのか?と思わされる。
「それにしてもさぁ、ユキってやっぱり優しいよね」
『後頭部抑えつけられて洗面台に顔突っ込まれて何言ってるの』
「やり方は多少強引でも、結局こうやって面倒見てくれるじゃない」
『…面倒みるって、そりゃぁ瀕死の状態の部下が来たらやらざるを得ないでしょうが』
「それを放っておけないんだもんねぇ、ユキは。」
“何が言いたい”という意味を込めて髪を洗う手に力を入れると、ハンジは少し呻いてから再び続けた。
「結局、ユキは面倒見ちゃうんだよ。リヴァイと同じでね」
確かに、リヴァイはなんだかんだと言って(目は口ほどにものを言う)部下の面倒もみている。多少目付きも態度も言葉も悪いが、人望があるからこそ兵士は彼を慕う。
「前から思ってたんだけどさ、リヴァイもユキもゴロツキとは少し違う感じだよね」
『…どこが?私は兎も角、リヴァイの目付きの悪さは犯罪者レベルでしょ』
「性格の事だよ」
そう言われて思い返してみるが、やはりリヴァイのあの目つきの悪さが先に出てきてしまう。
まぁ、目付きが悪いのも態度も人の事は言えないのだけれども、ハンジは「見た目じゃない」と言った。
「私のゴロツキのイメージってさ、金とか女とか自分の私利私欲の為に人間性を捨ててるような感じなんだよね。勝手なイメージだけど」
『まぁ、合ってるよ。実際ゴロツキなんてそういう奴らだから』
「でも、ユキとリヴァイは違うんだよね。二人ともそれぞれ一本の芯を持っているし、散々文句を言いながらも結局こうやって他人の面倒だって見ちゃうし面倒事も引き受けちゃう」
『…』
「そういう優しさを持ってるよね、ユキもリヴァイも」
リヴァイは確かにそういう一面を持っている。エルヴィンを睨みつけたり不機嫌そうに眉間に皺を寄せるくせに、最終的には仕事を請け負っている。
それと、呆れたように溜息をつきながらも手を差し伸べてくれるその優しさに、私自身いつも助けられている。
だけど、私はどうだろう。リヴァイみたいに手を差し伸べる事もなければ、人の弱さを受け止める懐もない。
そう言うと、ハンジはケラケラと笑った。
「それはリヴァイのことを過大評価しすぎだよ!」
ケラケラどころではなく、ゲラゲラと笑うハンジになんとなく恥ずかしくなり、手についた泡で目の周りを擦ってやる。
「痛い痛い!」と喚く声が聞こえるが、ざまぁみろと放置してやった。
「…いたた、ユキだってそうだよ。最近なんかリヴァイの執務室はずっと綺麗なままだし、紅茶だってリヴァイのタイミングはかって出してあげてるでしょ?」
『文句を言われるから気をつけてるだけだよ、少しでも埃が気になると「集中できねぇ」とか言い出すし』
「一々面倒くさいそれに合わせてあげられるのは、そうそうできないことだよ」
自分ではあんまり考えたことはなかったが、そういうものなのだろうか。
泡を流し、もう一度シャンプーをつけて泡立てる。ふぅと息をついたハンジが再び口を開いた。
「だからたまに思うんだ、もしユキとリヴァイが普通の家庭に生まれ育っていたら、こんな所になんか来てなかったんだろうなって」
ふと零された言葉になんと答えたらいいか分からず、思わず口を閉じた。
普通の一般家庭に育っていたら。
随分昔にそんな事を考えた事があったような気がしたが、最近では思いもしなかったので何だか新鮮だった。
だが、私の無言を機嫌を損ねたんだと勘違いしたのかハンジは慌てて口を開く。
「…あ、ごめん。気を悪くさせるつもりじゃなかったんだ」
『分かってるよ。ただ、そんな事想像もつかなかったから』
「そっか」
(リヴァイもユキも、当然望んで地下街で暮らしていたわけじゃないもんね…)
ユキが黙ったのをみて咄嗟に「まずい」と思ったが、彼女の表情は至って変わることなくいつもと同じで安心した。
しかし、今のは少し無神経だったかと反省する。
『まぁでも、地下街で暮らしてなかったらこうして調査兵団にいることはなかっただろうね』
「なんの巡り合わせか分からないけど、私はユキに会えて嬉しいよ」
『はいはい、ありがとう』
「ええー棒読みー」
『ほら、洗い流すから動かないで』
後ろを振り返ろうとしたハンジは軽く頭を押され、大人しく顔を伏せて瞳を閉じる。シャンプーを洗い流しながら、ユキはホッと小さく息をついた。
…危なかった。
このままハンジが振り向いていたら、緩んでしまっている自分の口元を見られるところだった。
こんな間抜けな表情、
…こいつにだけは見せられない。
「会えて嬉しかった」なんて言ってくれる人間が、この先何人自分の前に現れるだろうか。
思えばあの生活があったからこそ、私は今こうして調査兵団にいる。本当に人生とは何が起こるか分からない。
シャンプーを全て洗い流し『あとは自分で拭け』とタオルを放り投げる。
「あーっ、さっぱりした」
『何言ってるの、次はシャワー浴びてくるんだよ』
「いいよもう綺麗になったから」
『どうせ適当に出てくるから頭だけでもしっかり洗ってあげたんでしょうが。それとも体も洗って欲しいなんて言うつもり?』
「ユキのエッチ」
『捕獲した巨人削ぐぞ』
「それは困る…!」
ハンジは慌てて浴室へ入っていく。こんな脅ししか通用しないなんて一体どうなってるんだ。
ハンジがシャワーを浴びている間に部屋の窓を全開にさせ、部屋の空気を入れ替える。
そして出てきたハンジの口に問答無用でパンを突っ込んで飲み込ませたのだった。
**
***
「ハンジ分隊長が人間に戻ってる…!」
翌日、モブリットが放った第一声に思わずハンジは「酷いなぁ」と眉をハの字にした。
倒れてしまっていたモブリットはその日の夜にはもう目を覚ましていたのだが、私が面倒を見ておくから朝までゆっくり休んでいろと言っていたのだ。
だが、たった一日なのにも関わらず私の全身に襲いかかるこの疲労感。
こんなのの相手を毎日やっていたら気が狂ってしまいそうになる。彼は本当に優秀な人材だと改めて実感した。
書類もリヴァイにやってもらい小言を言われたが(ハンジに言って欲しい)、「ありがとうございます!」と何度もお礼を言われたので良しとしよう。
「これであと一週間は持つ!」
『ふざけるな』
尻を蹴れば「リヴァイに似てきたんじゃないの?」なんて涙目で訴えてくるハンジを無視した。