空色りぼんA
□包み込む手
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自分を見上げる虚ろな瞳に、
奥歯を噛み締め拳を握った。
自分の顔はきっと、
見れたものではないだろう。
目の前で座り込んでいる彼女は、真っ赤に染まっているマントや頬に付着した返り血から蒸気をあげている。
手元で鈍く光る銀色の刃からは血が滴り落ち、ユキの姿は正しく満身創痍という言葉が相応しかった。
『…来てくれると、思わなかった』
小さく零された声と、力なく俺を見上げてくる瞳に息が詰まるような感覚が襲う。
「…クソが、無茶しやがって」
『ごめんね』
そう言ってユキは、
へらりといつものように軽く笑った。
予想した通りの笑みに俺は座り込むユキの腕を強引に引き上げ、その身体を抱き締めた。
『…リ、リヴァ』
「うるせぇ」
『…私、今血できたな…』
「黙ってろ」
腕に更に力をこめて、
強く、強く抱き締める。
耳元で零される言葉も押し返そうとする手も無視して、その存在を確かめる。
…生きている。
ボロボロになり返り血に塗れながら、…それでも生きて俺の元に帰ってきた。
ユキの姿を確認して名前を呼ばれた時、心底安心した。生きていてよかったと心の底から安堵した。
…ああ、こんなにも自分は依存していたんだと改めて実感させられる。自分の腕の中にあるこの体温が愛しくてしょうがない。
ガラにもなく冷静さを欠いていた心が嘘のようにゆっくりと落ち着いていくのを感じながら、少し乱れた黒髪を撫でた。
「…心配かけさせやがって」
『…、…ごめん』
名残惜しさを感じながらゆっくりと身体を離し、驚いた顔で見上げるユキの頭をもう一度撫でる。
その頬にもやはり巨人のものであろう返り血が飛んでいて、白い頬を面妖に浮かび上がらせていた。
「酷でぇツラだな」
『…うるさい』
その頬についた血をハンカチで乱暴に拭ってやると、瞳を閉じてされるがままになっていたユキはふっと小さく笑った。
『リヴァイとの約束を、破れる訳ないじゃない』
ーー…俺の許可なく死んだら許さねぇ。
「当たり前だろう」
『いたいいたいいたい!』
血を拭った頬を抓ると涙目になりながら訴えてくる。それ以前にお前の頬はどうなっているんだというほど柔らかいそれは情けなく伸びた。
「行くぞ」
『もう?』
「当たり前だろう、このままじゃ陣形に取り残される」
『おんぶ』
「ふざけるな」
背を向けて歩き出すと、ぶーぶーと文句を言いながらついてくる。
ユキの頬は赤く染まっていた。それは抱きしめたからではなく頬を抓ったから。決して俺の望んでいる結果などではないことくらいわかっている。
「それにしても酷ぇな…」
俺は今考えていることを悟られないように馬の所まで戻ろうと歩き出すと、そこら中に転がる大小様々な巨人の肉塊が蒸気を上げていた。
二十体は超えているだろう。
倒されたばかりの巨人は項ではなく頭部が斬り落とされ、その切り口から更に項が削がれている。
ユキの握るブレードは捕獲用の特殊使用の物で、鞘を見ると一本も刃が入っていなかった。
『途中から何体討伐したか数えてないや』
「よく刃が足りたな」
『私のだけじゃない。死んだ兵士が私に刃とガスを託してくれたの』
その他にも転がる死体からガスと刃をもらいながら戦ったと言ったユキは瞳を伏せ、寂しそうに笑っていた。
ユキの瞳は目の前の景色ではなくどこか遠くを映している。それは恐らく死ぬ間際に彼女に希望を託したという兵士の最期。
『私に希望を託してくれた』
「…そうか」
死ぬ間際に希望を託されるのはよくあることだ。それが軽く受け流せるようなものではない事を知っている。
自分でさえ、そうしてきた兵士の顔は簡単に忘れることはできない。今でも彼らの顔を鮮明に思い出すことができる。
こんなものできればユキには背負わせたく無いが、調査兵団の副兵士長として生きていく以上何処までも付き纏うだろう。
ゆっくりと視線を上げたユキの瞳と視線が交わるとユキは、俺が考えていることが分かったのか困ったように笑った。
『今更一人や二人背負ったところで代わりはしないよ。…お互い、そんな真っ当な人生は送ってきてないでしょ?』
今更、変わらない。
そんな真っ当な人生は送ってきていない。
俺たちの背中にはもう既に数え切れないほどの人間がいるのだろう。その中には仲間ではない人間もいる。
「…そうだな」
それが今更一人や二人増えたところで大して変わらないし、自分にはそれが重いとか苦しいだとか言う権利はない。この世界ではそれを背負っていくのが生き残ったものの定めだ。
繋いでいた馬の綱を解いていると、何処に繋いでいたのかユキは自分の馬を連れてきた。
『行こう』
「待て」
『え?』
”来い”と視線で言われ、
ユキはリヴァイの元へ歩み寄る。
すると、リヴァイは自分の鞘から刃を数枚抜き取ってユキの鞘に差し込んだ。
『ちょっ、何してるの!?』
「いつ巨人が来るか分からないのに、丸腰のままいさせるわけにはいかねぇだろうが」
『だからって、それじゃあリヴァイが…』
「市街地についたら補給すればいい。それに、ただの荷物を連れて行くのは面倒だ」
闘えない人間は荷物だと言いたいのだろう。口悪く言っているが、結局は私に刃を渡すために言っているのだと彼の優しさにまた鼓動が音をならす。
この男以上に不器用な人間なんて存在しないんじゃないだろうか。そこがまた、どうしようもなく好きだと思ってしまうのだからもう手がつけられない。
「それから、お前は俺の後ろに乗れ」
『へ?』
「お前の馬は俺が並走させる」
『なんで、どうして?』
「足元フラつかせているお前を走らせるわけにはいかねぇだろうが」
ぽかんとしている私を他所に、
リヴァイは自分の馬に跨り兵長の手綱を引く。
「何してる、早く乗れ」
『…いいの?』
「ごちゃごちゃ言ってねぇで早くしろ」
”置いて行くぞ”という鋭い視線で見下ろされ、これは早くしないと本当に置いていかれるとそそくさと鐙に足をかける。
その時、リヴァイの手が私の腕を掴んで引っ張り上げた。それは初めて馬に乗せられた時のように乱暴なものではなく、優しく私の身体を導いた。
こんな些細な事にも顔に熱が登っていく。私が乗ったのを確認すると、リヴァイは手綱を握った。
「行くぞ」
『うん』
一瞬躊躇ったものの、これはやむおえないんだからしょうがないんだと自分に言い聞かせて、そっとリヴァイの身体に腕を回した。
それを確認したリヴァイは手綱を引き、馬を走らせる。
背中にぴったりと寄り添えば、触れ合う部分からリヴァイの体温が伝わってきた。普通の成人男性より小さいくせに、その体にはしっかりと筋肉がついていて見た目より大きく感じる。
自由の翼を掲げる背中に頬をつければ、信じられないほど安心した。
それとは対照的に心臓の音は煩いくらいに鼓動を鳴らす。この鼓動の音が伝わっていないことをただ祈るしかない…、今顔を見られたらきっと真っ赤に染まっているだろうから。
つい数分前まで巨人相手に必死に飛び回って肉を削ぎ落としていたのが嘘みたいだ。リヴァイが来た途端、自分の心はこんなにも安心しきっている。
例えここが壁外だとしてもやっぱりリヴァイの側が一番安心できる場所なんだと改めて自覚させられた。
ーー…ちょっと黙ってろ。
『…〜っ』
先程の出来事を思い出し、一気に顔に熱が集まる。
リヴァイが私を抱き締めたのは一体どう言う意味だったのか。ただ死んだと思っていた私が生きていたから良かったなという程度だったのだろうか。
見上げてみてもそこには自由の翼が靡いているだけで、彼の気持ちを窺うことはできない。さらさらと風に靡く髪が首に触れた瞬間を思い出し、思わず首元を抑える。
耳元で囁かれる声と、自分の身体を強く抱き寄せた逞しい腕を思い出すだけで心臓が爆発しそうだ。
ただ書類を片付ける人間がいなくなるとか、雑用させられなくなるとか、たまたまそう言う気分だったとか…理由はなんでもいい。
それでも、少しでも生きていて良かったと思ってくれていたならそれで充分だ。理由はどうであれ私を必要としてくれているということに変わりはないのだから。
少し冷たい風が頬を撫でる。後ろからリヴァイを見上げると、入団当初初めてリヴァイに馬に乗せてもらった時のことを思い出した。
そう言えばあの時は怖がって駄々をこねていた私に見兼ねたリヴァイに無理矢理乗せられたんだっけ…。
あの時の景色が本当に綺麗で感動したことを今でも鮮明に覚えている。
私はあの時もリヴァイに力いっぱい抱きついていた。…今思い出せば恥ずかしい思い出だが、あの時はこんなにリヴァイを好きになるとは思っていなかった。
『前だったらこんなに走られたら怖かったのに』
「あの時のお前は本当に酷かったな」
『成長したでしょ?』
「馬の並走もできない奴が偉そうに言うな」
『…それについては努力する』
褒めてもらおうと思ったのに見事に失敗した。しかし、リヴァイは少しの沈黙の後「…だが」と続けた。
「今となっては、俺はお前以外に背中を任せられなくなっているかもしれないな。」
どうしてリヴァイはこういうことを言ってくるのだろう。そんなのずるいじゃないか。
私は、リヴァイ身体にまわしている腕にほんの少しだけ力を込める。
…今くらいいいだろう。いくら抱き付いても馬に乗っている今なら許されるはずだと言い聞かせながら背中に顔をうずめると、無性に泣きそうになって唇を噛み締めた。
理由なんてどうでもいいなんて嘘だ。私はもっと多くを望んでいる。
こういう言葉を言うことも、抱きしめる事も決して他の兵士にはしないだろうリヴァイの行動が、自分のことを特別に思っているからであって欲しいと願っている。
いつから私はこんなに我儘になったのだろう。リヴァイに笑って欲しい、リヴァイに触れて欲しい、私を見て欲しい。
リヴァイと出会って好きになってから、私はそんなことをずっと思い続けてしまっている。出会う前はそんなこと少しも望んでなんかいなかったのに、なんて欲張りになってしまったのだろう。
リヴァイが私を特別に思ってくれるはずもないし、私にはそんな権利もありはしないのに。それでも願い続けてしまう自分が憎らしい。
もしも私が普通の女の子だったら、こんなふうに思うこともなかったのだろうか。面と向かって好きだと言えたのだろうか。
そんなことを考えて自分の運命を呪った。いつ以来だろうか…普通の女の子に生まれたかったなんて思ったのは。
いくら願ったところで、
今更何も変わりはしないのに。
…あぁ、この時間が一生続けばいい。
私は今後一生ないであろう彼の体温を感じられるこの瞬間を噛みしめるように、ゆっくりと瞳を閉じる。
自分とは違う鼓動の音が、
微かに聞こえるような気がした。