シャーロック・ホームズ−迷宮の世界−


□プロローグ
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 すでに学校の外は夕焼け色いっぱいに染まっていた。おそらく、大体の生徒はもう帰ってしまっているだろう。見ると、時計の針はすでに午後6時を指している。そんな時刻になっていたとは思いもしなかった私は、唖然とした。
「あちゃー、もうこんな時間かあ……」
 もう何度目かも分からない出来事に、またやってしまったと私は右手で頭を押さえる。
 私は青山紅葉。18歳の高校三年生。図書委員の仕事が終わり、自分の荷物をまとめて家に帰ろうとしているところだった。いや――正確には仕事を終えて、自分の借りたい本をじっくりと選んでからである。その結果、こんな時間にまで学校にいるはめになったのだが……。ああ、じっくり選びすぎたかと私は深く反省する。
 私は溜息を吐いて、自分の手の中にあるものを見た。手には3冊の推理小説。どれも分厚く、その本の外見を見ただけで誰もが読むのを拒みたくなるような難しそうな本ばかりである。この学校の図書室の推理小説ならすでに全て読みきって制覇しているのだが、私はいつもこうやって放課後には必ず3冊の本を借りていくのだった。
 実は、私はかなりの速読で、1日に3冊の本を読むことは全然苦にはならない。むしろ、本に囲まれて毎日ワクワクしながら本を読む日々に、私は生き甲斐生さえ感じていたのだ。特に、推理小説には。
 私は推理小説以外に童話やファンタジーなど他の分類も好んで読む。しかし、推理小説に対してだけは、一種の病気なのではないかと周りから疑われるぐらい執着していた。だが、誰が何と言おうと、推理小説を読む時に感じるあのスリルとワクワク感は堪らない。何の変哲もない日常に飽き、刺激を求める私の心を満たすのは推理小説だけ。
「さあ、帰りますか」
 判子を押した図書カードを貸出ボックス入れ、借りた本を鞄の中に仕舞い、私は鞄を持って図書室の出入り口のほうに向かって歩きだした。
 だが、私は不意にピタリと足を止めた。何となく視線は右に向けると、その先には、あまり本が出し入れされていない古い本棚。何故かその本棚が気にかかって近づくと、棚には埃が積もっていて、ここ最近その本棚が掃除されていないことが分かる。今度来た時に掃除しておかなければと私は苦笑いした。
 本棚に並ぶ本の背表紙を何気なく見ていると、一冊の本が目に留まった。
 ――『シャーロック・ホームズ』。
 それは、アーサー・コナン・ドイルが生み出した架空の人物、名探偵シャーロック・ホームズが、優れた観察力と推理力で様々な難事件を次々と解決していく、誰でも知っているあの有名な推理小説だ。
 久々にその名を見て私は懐かしく思い、思わず笑みをこぼした。この推理小説は私が初めて読んだ推理小説であり、その小説の主人公は、この世で最も愛した名探偵であった。今だって変わらずにそうなのだが、昔はよくホームズの推理ぶりに深々と関心させられたものである。
 私は懐かしさからか故か、まるで何かに惹かれるようにその本を手に取った。
「ホームズとワトソンの何気ない会話とかも、案外面白いんだよなあ」
 そんなことを思い出しながら、私は本をパラパラと捲りだす。だが、本の中身を見て私は眉をしかめた。いくらページを捲ってみても、何も書かれていない白紙が続いているのだ。
 不良品か? そう思った矢先、ページ半分を超えたところで何かが挟まっているのを見つける。手に取ってみると、それはちょうど私の手の平と同じ大きさくらいの黒い紙だった。きっと誰かが栞代わりに使ったのだろう。そう思い込む私だったが、ふと紙を裏返してみて、戸惑いに表情が固まった。
 「ようこそ、迷宮の世界へ」――。
 質は良くも不気味な黒い紙には、寂しげな白い活字でそんな言葉が印刷されていた。
 ――さあ、謎に満ちた冒険の幕開けだ。
 ――君はもう逃げられない。
 ――何故なら迷宮の世界への入口を開けてしまったのだから。
 急に不気味な声が頭に響くように聞こえた。どこか楽しげで、それでいて、こちらに危機感を感じさせる声――。空耳……ではない。確かに聞えた。思わず背筋がぞくりとする。冷たい汗が微かに首筋に流れた。
(誰? 誰なの?)
 正体不明の不気味な声の主に心で思っていることを声に出して訊きたかったが、私は口を開くことすらできなかった。私は今にも、この空間に漂う緊迫した空気に呑み込まれそうだった。
 このままこの場にいてはいけないと、私の頭の中ではすでに警報が鳴り始めていた。しかし、身体は言うことをきかず、一向に動こうとしない。私はその場に立ち尽くすしかなかった。ドクンドクンと心臓の音は何かが迫っているかのように大きくなっていく。それを私は、まるで何かのカウントダウンのようだと思い、恐怖に駆られた。
 緊張で息が止まりかけた、その時だった。突然、持っていた本から強い白光が勢いよく発射された。あまりの眩しさに私は咄嗟に目を瞑り、驚いて持っていた本と鞄を床に落としてしまう。
 そして、私は次の瞬間、身体が宙に浮かぶような感覚に襲われた――。
「え……?」
 その感覚を不思議に思って目を開けた瞬間、私は学校の図書室ではなく、まったく見覚えのない場所にいた。下を見ると、下へと降りる鉄骨製の大きな階段。だが、そこがどこか理解する暇もなく、宙に浮いていた私の身体は、急に重力に従うように下へ落ちていった。私は悲鳴を上げ、大きな音を立てながら階段を転げ落ちていく。
 私の身体は固い地面に叩きつけられた。そして身体中の痛みを感じながら、私は意識を手放したのだった。


続「01.憧れの街ロンドン



 

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