シャーロック・ホームズ−迷宮の世界−


□01.憧れの街ロンドン
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 私は、ふと目が覚めた。寝そべっている床が、固くて冷たくて、ものすごく寝心地が悪い。身体のあちこちが妙に痛いと思いながら、冷たい地べたから上半身を起こす。それから辺りをきょろきょろと見回した。
「……ここ……どこ?」
 私が目覚めてから最初に発したのは、そんな言葉だった。
 辺りを見てみると、そこはコンクリートの壁と床できた箱のような作りである暗い一室で、窓は一つもなく、どこに続いているのか、重苦しい威圧感を与えてくる鉄の扉が一つある。そして目の前には、上の階に続いているだろう鉄骨でできた頑丈そうな階段が。
 何故、私はこんな所にいるのか。顎に手を添え、記憶を辿るようにして考え込む。
 確か、私は放課後に図書委員の仕事で図書室にいたはずだった。そして仕事を終え、本を3冊借り、かなり遅い時間になっていたことに気付いて、急ぎ帰ろうとした。けれど、不意に足を止めて、何となく視線を右に向けると、その先には、あまり本が出し入れされていない古い本棚があって、何故かその本棚が気にかかった私は、そちらのほうへと近づいた。そこで私は、あの本を見つけた。圧倒的な人気を誇る、コナン・ドイルの有名な推理小説――シャーロック・ホームズの本を。
 そこまでの記憶を辿ったところで、私は全てを思い出し、ハッとした。
 そうだ。それから私は、何かに惹かれるよう、あの本を手に取った。でも、いくらページを捲っても中身は白紙が続いていて、やがて私は本の間に挟まれていた黒い紙を見つけた。紙に書かれていた文章は、「ようこそ、迷宮の世界へ」――。それを目にしてから、突然、頭に響くように不気味な声が聞こえて……いきなり、その本から強い白光が発射されたのだ! 咄嗟のことに私は目を瞑り、手に持っていた本と鞄を床に落としてしまった。次には、私の身体は宙に浮かぶような感覚に襲われて――。
 そして目を開けた瞬間、そこは学校の図書室ではなかった。だが、そこがどこなのか理解する暇もなく、宙に浮いていた私の身体は急に下に落ちていってしまい、そのまま階段を転げ落ちていって――そこから記憶がない。おそらく、気を失ってしまったのだろう。
 しかし、事の成り行きは分かったが、どうしてこんな状況になっているのか、私には説明することができない。中身は白紙のシャーロック・ホームズの小説、頭に響く正体不明の不気味な声、白い活字で「ようこそ、迷宮の世界へ」と印刷された黒い紙、本から発射された眩しい強い白光、そして――いきなり変わってしまった視界。全てが謎に包まれている。それらは、今私がここにいることに関係しているのだろうが、それでも、今私の身に起こっていることは、おそらく、科学で説明することは……できない。
 確証はないのに、妙にそんな勘を抱いて、私はゆっくりと立ち上がった。
「……いっ!」
 立ち上がろうとして足に力を込めた時、右足に激痛が走る。おそらく、階段から転げ落ちた時に強く打ちつけたのだろうが……今はそんなことを気にしている場合でもない。不安に置かれた説明できないこの状況の中、こんな所に訳も分からず一人でいる気は更々なかった。私は心を鬼にして、しっかりと立ち上がった。運がいいことに、骨は折れていないみたいだった。
 それにしても、ここは本当にどこなのだろう? 考えてみてもまったく分からない。気が付いたら知らない場所にいたなんて、これではまるで瞬間移動――テレポーテーションのようだ。
 そんなことを考えて、こんな状況でありながら私は、自嘲するように薄ら笑いを浮かべた。瞬間移動? いやいや、そんな馬鹿な話があるものか。とにかくここから出なければ。状況を把握するために、とりあえず外に出たほうがいいだろう。
 私は一度抱きかけたSF小説にありがちな考えを改め直すと、すぐに行動に移る。錆びついた鉄の扉の前に立つと、私は自分の身体全体の体重をかけて重い扉を開けようと試みた。鉄の扉は想像以上に重く、錆びついているせいか、動かそうとすればするほど扉は嫌な音を立てる。扉はなかなか動く気配がなかったが、しかし、ここで諦めてたまるかと、私は息を吸って扉を押す力を更に強くした。
「開いてぇー!」
 根気強く押し続けたのが良かったのか、徐々に重い鉄の扉は開かれ始めた。この調子でいけば大丈夫だろう。
 鉄の扉が半開きくらいになると、私はその隙間から日の光が当たる外へと出た。
 荒くなった息を整えながら、ようやく私は外の世界を見渡すことができた。そこは薄暗く細い路地。自分がたった今出てきた建物を見上げれば、そこは今は使われてなさそうな古びた倉庫らしきものだった。しかしながら、やはりまったく見覚えのない場所である。
 とりあえず私は、この薄暗い路地から抜け出すために、まともな道に出るための出口を探そうと歩きだす。どこかに大通りへと出る道があるはずだ。
 迷路のように入り組んだ路地をしばらく歩いていると、歩いていた道の正面から眩しい光が差しこんできていた。ザワザワと賑やかな声が聞こえてくる。私はパアッと表情を輝かせた。やっとまともな道に出られそうだ。私は嬉しくなって、光に向かって走り出す。
 薄暗い路地から勢いよく飛び出した瞬間、眩しい光が容赦なく目に飛び込んできた。薄暗かった路地と比べて、眩しすぎる太陽の光に耐え切れず、私は思わず目を瞑る。光に目を慣らしながら、徐々に瞼を上げてみると、そこは沢山の人たちが行き交う賑やかな大通りだった。どこからか焼きたてのパンのいい匂いがし、子供たちがワイワイとはしゃぎながら道を駆け抜けていく。そして、楽しそうに立ち話をする女性たちの姿が。
 だが、おかしなことに、そこにいる人たちは皆、どう見ても日本人ではなかった。見る限り、黒い瞳に黒い髪をしている者など一人も見当たらないし、皆、19世紀頃のヨーロッパを舞台にした映画でよく見られる服装をしている。それに、辺りに建っている全ての建物も、日本で見かける現代的な建物ではない。
(これじゃあ、まるで……まるで……)
 ――シャーロック・ホームズの時代背景を見ているようではないか。
 図書室で聞えたあの不気味な声が、今にも聞えてきそうで、私は思わず身震いする。
 「ようこそ、迷宮の世界へ」――。
 あの言葉は何を示しているのだろう。そして、今目に映る景色は現実のものなのか。
 自分が今ここに存在することがいけないことのような気がして、私は僅かに後ずさる。
「まさか、ここ……日本じゃないとか……?」
 そんな戯言を呟いてみてから、私は「まさか。ありえない」とすぐに首を横に振った。そんな現実的でないことを認めてしまったら、私の愛しのシャーロック・ホームズが何て言うだろう。呆れるに決まっている。もしくは、この説明のつかない状況について、見事な推理を私の目の前で披露してくれるかもしれない。
 とにかく、ここは、日本だ。
 日本人らしい人物がさっぱり見当たらないことに、わざと私は気づかないふりをした。
 大体、急に本から白い光が発射されたかと思いきや、気付けば瞬間移動のようにまるで知らない所にいた、なんてところから、そもそもおかしい。まったくどうなってるんだ、と私は頭痛のする思いだった。
 私がこの状況に戸惑っていると、8歳か9歳くらい少年が、新聞片手にこちらのほうへと歩いてきた。辺りをきょろきょろと見回していることから、どうやら何かを探しているらしい。
 金色がかった茶髪に瞳の色は淡いブルー。やはり、あの少年も日本人ではなさそうだ。
 しばらく、その少年を何となく遠くから見ていた私だったが、ハッと我に返って、今自分がしなければならないことを思い出す。いけない、いけない。まず、ここがどこなのかを誰かに尋ねる必要がある。もう日も暮れ始めていた。
 しかし、周りには外国人しかいない。私は英語が得意なわけでもなく、かといって、すごく苦手というわけでもなかったが、それでも外国人に話しかけるのには勇気がいる。話すなら歳が近そうな子供にしておこうかと、私は近くにいたあの少年に目をつけた。
「Excuse me.」
 英語でぎこちなく話しかけると、少年はこちらを向き、淡いブルーの瞳が私を映した。
「え? あ、はい。何でしょう?」
 だが、意外にも少年は日本語で返してきた。私は驚愕に目を見開く。
「に、日本語しゃべれるの?」
 そう訊くと、少年は子供らしい顔つきで、きょとんとした。そんな反応にクエスチョンマークを頭に浮かべて相手の様子を窺っていると、少年は突然ぶんぶんと首を横に振った。
「ま、まさか! 日本語なんて一度も勉強したことないですし……」
 それを聞いて、今度は私がきょとんとする番だった。 
「で、でも、君、今日本語しゃべってるじゃない……」
「……は? 何をおかしなこと言ってるんですか。今、僕がしゃべっているのは、あなたが先程からしゃべっているのと同じ……英語じゃないですか」
 少年はそう言って、私を訝しむような目つきで見る。
 ――この少年は何を言っているのだろう?
 聞き間違いでなければ、目の前にいる少年は、たった今、私が先程から英語でしゃべっていると言った。私は真意を見極めるべく、その少年の瞳を驚きの目で見つめるが、そこには嘘をついているような色はない。訝しげにこちらを見てはいるが、彼の瞳は揺るぎなくまっすぐだった。それはこの少年が嘘をついていないということを示していて、私を戸惑わせる。
 私は最初、話しかける時は英語を使いはしたが、その後は正真正銘、日本語しか発してなかった。それなのに、この少年は自分が、私が先程からしゃべっているのと同じ――あくまで「英語」でしゃべっていると言う。そう言う彼自身だって、先程から日本語でしかしゃべっていないのに。
 それでは何か、私には彼の発する英語が日本語に聞えていて、反対にこの少年には、私の発する日本語が英語に聞えているとでも言うのか。果たして、そんなことがあっていいものなのか……。
 私は頭を鈍器で殴られたように混乱していた。頭の中ではぐるぐると色んな考えが動き回っていて、うまく考えが一つにまとまらない。いや、ほんとは少し前から、単なる予想ではあるが、私は一つの可能性を導き出していた。しかし、それは馬鹿らしい考えだと、私は何度も自分の頭の中から振り払った。信じられない現実に気付かない振りをしていた。先程からずっと嫌な予感が続いている。
 私は急激に襲いかかってきそうな不安を無理矢理に抑え込んだ。
「ね、ねえ! 君、名前は?」
 私が焦ったように問いかけると、少年は戸惑いながらも答えた。
「ビリーですけど……」
「そう、ビリー君。じゃあ君は、本当に日本語でなく英語でしゃべっているのね?」
 私の問いに、ビリー君は何でそんなことを訊くのかという顔をしていたが、頷いた。
「そう……それじゃ、私も英語でしゃべってる?」
「さっきそう言ったじゃないですか……」
 うんざりした様子のビリー君に対し、それでも私は更に真実を確かめるように訊いた。
「本当に、本当ね……?」
 すると今度は、とうとう痺れを切らしたのか、ビリー君は苛立つように言った。
「何で僕が嘘をつかなきゃいけないんです。何の意味もないじゃないですか。変なことばかり訊かないでください」
「あ……ご、ごめんね。変なことばかり訊いちゃって」
 さすがにしつこく訊きすぎたかと、私は慌ててビリー君に謝る。
「私、今ビリー君が言ったこと、全部信じるから……だから、もう少しだけ質問していいかな。……駄目?」
 私は少し屈むようにして、遠慮がちに彼の顔を覗き込んだ。上目使いで相手の顔を窺っていると、何故かビリー君の顔はみるみる真っ赤に染まっていく。
「いや、その……ど、どうぞ……」
「――あ、ありがとう!」
 ビリー君の答えに私は心底ほっとした。今のように私が変な質問ばかりするとなると、彼に相手にされなければ、他の人も同じようにして私を相手にしてくれなさそうだからだ。私が満面の笑みを見せると、それを見たビリー君は何故か目を泳がせる。
「そ、それで何ですか?」
 首を傾げる私だったが、急かすようにビリー君に問われ、思考は別のほうに向いた。
「う、うん……あの……また変なこと聞いちゃうんだけどさ……」
 私は複雑な想い抱きながら、重くなる口を、どうにかして開く。
「ここ――ど、どこかなあ?」
「はい?」
 私の間抜けな質問に、ビリー君は一瞬、不意を突かれたような顔をしていた。
「もしかして道に迷ったとかですか?」
「うん……ま、まあ、そんな感じだけど……」
「だけど?」
 なかなか核心に触れない私にビリー君が先を足す。
 本当は答えを聞くのが怖かった。知りたくもなかった。だが、ここまで来てしまっては、もう現実から目を逸らすことはできない。事実を認め、それを受け入れなければならない。私は覚悟を決めると、口を開いた。
「い、一応訊くけどさ……ここは……日本だよね?」
 私が不安げに見つめると、大きく目を見開いてビリー君も無言でこちらを見つめ返した。ところが、どうしたことか、しばらく無言で見つめ合った後、彼は突然大声で笑い出した。そんな彼を私は唖然と見つめる。
「ああ、ごめんなさい、ごめんなさい……ぷっ……くくっ……」
 そう謝るものの、ビリー君はまだ笑いが止まらないのか、必死に口に手を当てこみ上げてくるものを堪えていた。
 だが、次にビリー君が口に出した言葉は、私にはあまりにも衝撃的すぎる言葉だった。
「ここが日本? そんなわけがないじゃないですか。ここは正真正銘、イギリスのロンドン――でしょ?」
 本当におかしなことを聞く人だなあ――。
 そう言って笑うビリー君を、私はしばらく見つめることしかできなかった。

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