シャーロック・ホームズ−迷宮の世界−


□01.憧れの街ロンドン
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*   *   *

「あ、あの、どうかしましたか? 随分と顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」
「あ……うん、大丈夫。何ともないよ。平気」
 今自分が立っている場所がイギリスのロンドンだと聞いて、しばらく愕然としていた私だったが、心配そうなビリー君の声に気付いて我に返る。けれども、心が完全に自分のもとに返ってきた心地がしない。まるで、夢とは思えないほど妙にリアルな感覚があり、それでいて現実味のない内容の夢を見ているようだった。
(まさかとは思ってたけど、ここが日本でなくイギリスだなんて……)
 不可解な出来事の連続からして、まさかと予想していたことではあったのだが、それをビリー君の口から聞かされた時は、かなりのショックを受けた。自分だけ世界から切り離されたような気分が先程から私に付き纏っている。あの黒い紙に書いてあったように、本当に“迷宮の世界”に来てしまったのではないかと。漠然と感じていた不安が、はっきりとした不安となって押し寄せてくる。
「そう、ですか? でも、急に元気がなくなったように思えますけど……」
 心配をかけまいとしている私に薄々感づいているのか、いないのか、ビリー君は大丈夫だと言い張った私を心配そうに見つめていた。それから、ふと何かに気付いたように目をぱちくりさせる。
「そういえば、随分と身体中が傷だらけですよね」
 ビリー君の言葉に、私は自分の身体全体を見回してみた。すると、確かに私の身体は、あちこち傷だらけだった。どおりで身体中が痛いわけだと今更ながら納得する。不可解なこと続きで、自分の身体を気にするどころじゃなかった。
 これらの傷は全て、階段から転げ落ちた時にできたのだろう。しかし、そのことを話すと、更に目の前の少年を心配させてしまいそうだったので、「ちょっとドジを踏んでね」と私は曖昧な言葉を返す。詳しく事を追及されないよう、私は話を逸らすため素早く尋ねた。
「それよりさ、まだ訊きたいことがあるんだ。あの、今は何年?」
 どうしてそんなことを訊くのか分からないのだろう。ビリー君は不思議そうな顔をしながらも答えた。
「1882年」
 ――そうか、この世界は今、“1882年”なのか。
 ビリー君の非現実的な言葉にも、もう私は驚かなくなっていた。どこか客観的に物事を捉えながら、私は、それを証明できるものがあるか尋ねてみる。すると、ビリー君は先程からずっと右手に持っていた新聞を広げて見せた。
「ほら、ここ見て。『1882年』って書いてあるでしょ?」
 私は、ビリー君が指差す、新聞の右上のほうを見てみる。すると、そこには確かに「1882年」と記されていた。その隣には「11月6日」と記されている。当然、私のいた時代は1882年ではない。私は、正真正銘の平成っ子だ。それに、今日は7月10日だったはずだ。だが、新聞を見る限り、今の季節は夏ではなく秋。
(イギリスのロンドンといい、この時代といい……)
 私はこの不可解な現象の意味を推測してみた。気が付けば知らない場所にいて、そこがロンドンだったという不可解な現象だけなら、それは瞬間移動で説明がつく。しかし、こうして過去に来ていることや、違う言語を使っているのに、相手には他の言語に聞こえていることから、ただの瞬間移動では片付けられないことが分かる。では、これは一体何なのか。実は先程から、ロンドンというキーワードから考えて、一つ思い当たることがあった。それは、図書室で見つけたあの本――『シャーロック・ホームズ』。
(そう。もしかしたら私は――)
 ――私は、シャーロック・ホームズの世界に入り込んでしまったのかもしれない。
 ちらりと私は新聞記事のほうを見てみる。私には、その書かれている記事が、全て日本語に見えていた。だが、今までのことからして、これらの記事も、きっとビリー君には英語に見えているのだろう。私は冷静にそう推測する。もうこの現状にも、だいぶ落ち着いてきていた。そのことを喜んでいいものか分からず、私は密かに溜息を吐く。
 ふと、とある新聞記事が私の目に入った。そこの記事だけ、手書きの黒いインクで印がつけられている。気になって記事の内容を見てみると、それは最近開店したらしいパン屋の宣伝広告だった。見事なキャッチフレーズと共に、小さい文字でそのパン屋の住所も書かれている。
(そういえば……)
 最初見かけた時のビリー君の様子を思い出していたその時、冷たい風が私の身体を掠めた。その寒さに思わず、私の身体はぶるっと震える。私は両腕で自身の身体を抱きしめた。夜が近づいているからか、だいぶ冷え込んできている。
「うう、寒っ……」
 寒さのせいで震える私の声に、ビリー君は苦笑いして私の格好を見た。
「そりゃ、そんなに薄着してたら、寒いに決まってますよ」
 そう言われて、私も自分の今の格好を見てみた。真っ白な半袖のセーラー服に、黒の膝丈スカート。どちらも夏用の制服のため、風通しのいい涼しげな素材で作られている。私の格好は、完璧に夏の服装だった。ビリー君の言うとおり、11月という時季には薄着すぎる。だが、それも仕方ない。
(だって、さっきまで私がいた所は、思いっきり夏だったんだもの!)
 私が先程までいた日本では、まだ真夏の暑い季節だった。秋なんてまだ先のことだと思っていたのに……。
 心の中で嘆いていると、ビリー君はまじまじと私の格好を見ながら、眉をしかめて言った。
「それにしても、変わった格好ですね……」
 変わった格好とは、私のこの服装のことを言っているのだろうか。そうだとすれば、女性に対して、それは少し控えたほうがいい言葉だと思う。私は気にしないが、この少年が大人になって社会に出る時には、気にする女性は周りに大勢いることだろう。そう思いながらも、それを口にすることはなく、私は首を傾げた。
「そう? 薄着っていうこと以外には、どこもおかしなところはないと思うけど……変?」
 そう尋ねれば、ビリー君は急に顔を真っ赤にして、明らかに目を泳がす。
「えっ!? いや、変って言うか……あ、あのですね……そんなに素足を見せていたら、男の人に狙われかねないっていうか……ほ、ほら! 何かと物騒な世の中ですし! わ、分かるでしょう?」
 もじもじして何を話しだすかと思えば、ビリー君の口から出てきた言葉に、私はきょとんとする。彼は私が素足を見せすぎだと言いたいのだろうか。だが、このスカートの長さは、私の学校の規則をきちんと守っているものであって、短すぎるということはない。友達には「もう少し短くすればいいのに」とまで言われたのだから。
 そこまで考えて、私は気が付く。そういえば、ここは私が今まで暮らしていた世界とは違うのだった。ここは、1882年のロンドン。シャーロック・ホームズのいた時代。私の着ている日本の制服が、この時代の子供であるビリー君の目に変に映るのは当然だ。
 辺りを見渡せば、大通りを歩く人々の中に、私が見慣れた現代服を着ている人は一人もいない。試しに、近くで噂話をしていたご婦人たちの服装を見てみれば、私の格好が周りと不釣り合いなことは一目瞭然。皆、足元まで届く裾の広がったドレスを身につけている。あの中に加われば、どう見ても私が悪い意味で目立つのは明らかだった。
「ありがとう、ビリー君。おかげで、今の現状が少し分かったよ。色々と変なこと訊いて、ごめんね」
 一通り聞くべきことを聞くことができた私は、長いこと私の質問に付き合ってくれたビリー君にお礼を言った。
「いや、別にいいですけど……」
 少し驚いた様子でそう言うビリー君に、私はほっとする。
「よかった。それじゃ、私、もう行くね。本当にありがとう」
 もうビリー君を引きとめておく理由はない。私は今一度お礼を言って、その場を去ろうと彼に背中を向けた。だが、二、三歩前に進み出たところで、ふと私は足を止めた。振り返れば、呆然と見送っていたビリー君と目が合う。私はにこりと笑って、とあるパン屋のほうを指差した。
「君が探してたパン屋なら、たぶんあそこなんじゃないのかな。じゃ、機会があれば、また会えるといいね」
 私の言葉に、ビリー君はポカンと口を開けた。そんな彼に、くすりと笑って私は手を振り、今度こそ、その場から立ち去る。これから、どうすべきなのか、はっきりとは分からない。だが、今はこの状況にくよくよするよりも、とりあえず、行動するべきだろう。
 迷宮の世界に来てしまった不安を抱きながら、私は一人、慣れないロンドンの街を、あてもなく彷徨い始めた――。

*   *   *

 ベーカー街221B――。私はそこに建つ下宿の女主人でございます。
 現在そこを借りているお二人は、今日とある用事で出かけており、夕食前には帰っていらっしゃると聞いていました。ですが、今日は帰りが遅くなる、そんな予感がいたします。1年間、彼らを見てきた勘と言いましょうか。
 それでも、夕食前に帰ってこないとは限らないので、私はお二人が帰ってくるという時間前に、ちゃんと夕食の準備をしておくことにします。一応、夕食の時間を過ぎても帰ってこなかった時のため、夕食のメニューはシチューにしておきました。これなら帰りが遅くとも、冷めた食事を口にせずに済みます。お二人は長いこと煮込んだ温かいシチューを召し上がることになるでしょう。
 台所でシチューに入れる具材を切っていますと、後ろからドアが開く音が聞こえました。振り返ると、そこには紙袋を抱えた少年ビリーがいます。紙袋から少しはみ出た大きなパンは、見るからにおいしそうな焼き色をつけていました。
 ビリーは近所に住む子供です。家が貧しく、時折、御用聞きをして、少ないお金を稼いでいました。
 忙しくしていた私は、夕方、ビリーにちょっとしたお使いを頼みました。ロンドンに最近、新しくできたパン屋できたことを、私は今朝新聞を見た時に知りました。夕食にシチューを作ろうと思った私は、そのことを思い出し、これは丁度いいと思い、その店のパンを買ってくるようビリーにお金を渡したのです。
「おかえりなさい。外は寒かったでしょう」
 パンの入った紙袋を抱えて帰ってきたビリーを、私は微笑んで迎えました。しかし、反応がないビリーに気付いて、私は首を傾げます。どこか呆然とした様子に見えるのですが、どうしたのでしょう。
「ビリー? どうかしましたか?」
 心配になって声をかけると、彼は我に返ったように、慌てた様子で話し始めました。
「聞いてくださいよ、ハドスン夫人! パン屋に行く途中、奇妙な女性に会ったんです!」
「奇妙な女性?」
「ええ。見たこともない服装をした女性が、急に僕に話しかけてきたんです。それで、その人、奇妙なことばかり言うんですよ。僕は明らかに英語で話しているのに、日本語でしゃべっているだなんて言ったり、ここはイギリスのロンドンに決まってるのに、ここが日本だなんて言ったり……ついには今が何年か尋ねてきたんです! ほんと奇妙だ!」
 興奮気味に話すビリーの話を聞き、さすがに私もそれは奇妙だと思いました。その方は日本人なのでしょうか? 英語で話しているのに、日本語で話していると言ったり、ここがどこだなんて子供でも分かることなのに、ここは日本だなんて言ったり、それらの行動は、まるで日本とイギリスを取り間違えているように思えます。何もかもが奇妙すぎて、私は首を捻ることしかできないでいました。
 すると、ふとビリーは何かを思い出したように、あっと声を上げました。
「その人、僕のもとから去っていく時、僕がパン屋を探していることを言い当てたんです。パン屋を探しているだなんて僕は一言も言った覚えはないのに……。思えば、これが一番奇妙だ。どうして彼女は分かったんだろう?」
 それを聞いて、私は真っ先に一人の人物を頭に思い浮かべました。誰からも何も聞いていないのに、簡単に初対面である人物の前歴を言い当ててみせ、人を心底驚かせる彼――。まるで、あの人のようだわ、と私は思いました。
「まあ、ほんとに奇妙だこと。そうね、あの人にこのことを伝えたら、なんて答えるかしら」
「あの人?」
 私が言った「あの人」が誰のことを指しているのか分からないのでしょう。ビリーは首を傾げました。
「あの人ですよ。ここの下宿に住んでる……」
「ああ、あの人ですか!」
 ビリーは私が答えを言ってしまう前に、閃いたように、ぽんっと手を叩きました。今度は「あの人」が誰を指しているか分かったようです。ここの下宿に住んでいる人物は、二人しかいません。となると、どちらのことを言っているのか、お二人のことを知っている者であれば、答えは簡単に分かります。
「きっと興味を持つに違いないわ」
 にこりと笑って私が言うと、ビリーも笑いながら「でしょうね」と答えました。

*   *   *




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