●怖い噺 六


□非常階段
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数年前、職場で体験した出来事です

そのころぼくの職場はトラブルつづきで大変に荒れた雰囲気でした。普通では考えられない発注ミスや工場での人身事故があいつぎクレーム処理に追われていました。朝出社して夜中に退社するまで電話に向かって頭を下げつづける日々です

当然ぼくだけでなく他の同僚のストレスも溜まりまくっていました

その日も事務所のカギを閉めて廊下に出たときには午前三時を回っていました。O所長とN係長、二人の同僚とぼくをあわせて五人です。みな疲労で青ざめた顔をして黙りこくっていました

ところがその日はさらに気を滅入らせるような出来事が待っていました。廊下のエレベーターのボタンをいくら押してもエレベーターが上がってこないのです。なんでもその夜だけエレベーターのメンテナンスのために通電が止められたらしくビル管理会社の手違いでその通知がうちの事務所にだけ来ていなかったのでした

これにはぼくも含めて全員が切れました。ドアを叩く蹴る怒鳴り声をあげる。まったく大人らしからぬ狼藉のあとでみんなさらに疲弊してしまい同僚のSなど床に座りこむ始末でした

「しょうがない、非常階段から、おりよう」

O所長がやがて意を決したように口を開きました

うちのビルは基本的にエレベーター以外の移動手段がありません。防災の目的でつくられた外付けの非常階段があるにはあるのですが浮浪者が侵入するのを防ぐため内部から厳重にカギがかけられ滅多なことでは開けられることはありません。ぼくもそのときはじめて階段につづく扉を開けることになったのです

廊下のつきあたり蛍光灯の明かりも届かない薄暗さの極まったあたりにその扉はありました。非常口を表す緑の明かりがぼうっと輝いています

オフィス街で働いたことのある方ならおわかりだと思いますが、どんなに雑居ビルが密集して立っているような場所でも表路地からは見えない「死角」のような空間があるものです

ビルの壁と壁に囲まれた谷間のようなその場所は昼間でも薄暗く街灯の明かりも届かず鳩と鴉のねどこになっていました

うちの事務所はビルの7Fにあります気乗りしない気分でぼくがまず扉を開きました。重い扉が開いたとたんなんともいえない異臭が鼻をつきぼくは思わず咳き込みました。階段の手すりやスチールの踊り場がまるで溶けた蝋のようなもので覆われていました。そしてそこから凄まじくイヤな匂いが立ち上っているのです

「鳩の糞だよこれ…」

N女史が泣きそうな声でいいました。ビルの裏側は鳩の糞で覆い尽くされていました。まともに鼻で呼吸をしていると肺がつぶされそうです。もはや暗闇への恐怖も後回しでぼくはスチールの階段を降り始めました

すぐ数メートル向こうには隣のビルの壁があるまさに「谷間」のような場所です。足元が暗いのももちろんですが、手すりが腰のあたりまでの高さしかなくものすごく危ない。足を踏み外したら落ちるならまだしも壁にはさまって宙吊りになるかもしれない…

振り返って同僚たちをみるとみんな一様に暗い顔をしていました。こんなついていないときに微笑んでいられるヤツなんていないでしょう。自分も同じ顔をしているのかと思うと悲しくなりました

かん、かん、かん…

靴底が金属に当たる乾いた靴音を響かせながらぼくたちは階段を下り始めました

ぼくが先頭になって階段をおりました。すぐ後ろにN女史、S、O所長、N係長の順番です

足元にまったく光がないだけにゆっくりした足取りになります。みんな疲れきって言葉もないまま六階の踊り場を過ぎたあたりでした

突然、背後からささやき声が聞こえたのです。唸り声とかうめき声とかそんなものではありません。よく映画館なんかで隣の席の知り合いに話し掛けるときに話しかけるときのような押し殺した小声でぼそぼそと誰かが喋っている

そのときは後ろの誰か所長と係長あたりが会話しているのかと思いました。ですがどうも様子がへんなのです。ささやき声は一方的につづきぼくらが階段を降りているあいだもやむことがありません。ところがその呟きに対して誰も返事をかえす様子がないのです。そして…その声に耳を傾けているうちにぼくはだんだん背筋が寒くなるような感じになりました

この声をぼくは知っている。係長や所長やSの声ではない。でもそれが誰の声か思い出せないのです。その声のまるで念仏をとなえているかのような一定のリズム。ぼそぼそとした陰気な中年男の声。確かによく知っている相手のような気がする。でも…それは決して夜の三時に暗い非常階段で会って楽しい人物でないことは確かです。ぼくの心臓の鼓動はだんだん早くなってきました

いちどだけ足を止めてうしろを振り返りました。すぐ後ろにいるN女史がきょとんとした顔をしています。そのすぐ後ろにS。所長と係長の姿は暗闇にまぎれて見えません

ふたたび階段を下りはじめたぼくは知らないうちに足をはやめていました。何度か鳩の糞で足をすべらせあわてて手すりにしがみつくという危うい場面もありました。がとてもあの状況でのんびり落ち着いていられるものではありません…

五階を過ぎ四階を過ぎました。そのあたりで背後から信じられない物音が聞こえてきたのです

笑い声

さっきの人物の声ではありません。さっきまで一緒にいたN係長の声なのです。超常現象とかそういったものではありません。なのにその笑い声を聞いたとたんまるでバケツで水をかぶったようにどっと背中に汗が吹き出るのを感じました

N係長は、こわもてで鳴る人物です。すごく弁がたつし切れ者の営業マンでなる人物なのですが事務所ではいつもぶすっとしていて笑った顔なんて見たことがありません。その係長が笑っている。それも…すごくニュアンスが伝えにくいのですが…子供が笑っているような無邪気な笑い声なのです

その合間にさきほどの中年男がぼそぼそと語りかける声が聞こえました。中年男の声はほそぼそとして陰気でとても楽しいことを喋っている雰囲気ではありません。なのにそれに答える係長の声はとても楽しそうなのです

係長の笑い声と中年男の囁き声がそのとき不意に途切れぼくは思わず足を止めました。笑いを含んだN係長の声が暗闇の中で異様なほどはっきり聞こえました

「所長…」

「何?…さっきから、誰と話してるんだ?」

所長の声が答えます。その呑気な声にぼくは歯噛みしたいほど悔しい思いをしました。所長は状況をわかっていない。答えてはいけない。振り返ってもいけない。強くそう思ったのです

所長と、N係長はなにごとかぼそぼそと話し合いはじめました。すぐうしろでN女史がいらだって手すりをカンカンと叩くのがやけにはっきりと聞こえました。彼女もいらだっているのでしょうですがぼくと同じような恐怖を感じている雰囲気はありませんでした

しばらくぼくらは階段の真ん中で立ち止まっていました。そして震えながらわずかな時間を過ごしたあとぼくはいちばん聞きたくない物音を耳にすることになったのです

所長の笑い声

なにか楽しくて楽しくて仕方のないものを必死でこらえている子供のような華やいだ笑い声

「なぁ、Sくん…」

所長の明るい声が響きます

「Nさんも、Tくんも、ちょっと…」

Tくんというのはぼくのことです。背後でN女史が躊躇する気配がしました。振り返ってはいけない。警告の言葉は乾いた喉の奥からどうしてもでてきません(振り返っちゃいけない振り返っちゃいけない…)

胸の中でくりかえしながらぼくはゆっくりと足を踏み出しました。甲高く響く靴音をこれほど恨めしく思ったことはありません。背後でN女史とSが何か相談しあっている気配があります。もはやそちらに耳を傾ける余裕もなくぼくは階段をおりることに意識を集中しました

ぼくの身体は隠しようがないほど震えていました。同僚たちの…そして得体の知れない中年男のささやく声は背後に遠ざかっていきます。四階を通り過ぎました…三階へ…足のすすみは劇的に遅い。もはや笑う膝をごまかしながら前へすすむことすらやっとです

三階を通り過ぎ眼下に真っ暗な闇の底…地面の気配がありました。ほっとしたぼくはさらに足をはやめました。同僚たちを気遣う気持ちよりも恐怖の方が先でした

背後から近づいてくる気配に気づいたのはそのときでした。複数の足音が四人、五人足早に階段を降りてくる。彼らは無口でした。何も言わずぼくの背中めがけて一直線に階段をおりてくる

ぼくは、悲鳴をあげるのをこらえながらあわてて階段をおりました。階段のつきあたりには鉄柵で囲われたゴミの持ち出し口がありそこには簡単なナンバー鍵がかかっています

気配は、すぐ真後ろにありました。振り返るのを必死でこらえながらぼくは暗闇の中わずかな指先の気配を頼りに鍵をあけようとしました

そのときです。背後でかすかな空気を流れを感じました。すぅぅ…(何の音だろう?)

必死で指先だけで鍵をあけようとしながら、ぼくは音の正体を頭の中でさぐりました(とても背後を振り返る度胸はありませんでした)空気がかすかに流れる音。呼吸。背後で何人かの人間がいっせいに息を吸い込んだ。そして…

次の瞬間ぼくのすぐ耳のうしろで同僚たちが一斉に息を吐き出しました…思いっきり明るい声とともに

「なぁTこっちむけよ!いいもんあるから」

「楽しいわよ、ねTくん、これがね…」

「Tくん、Tくん、Tくん、Tくん…」

「なぁ悪いこといわんてこっち向いてみ。楽しい」

「ふふふ…ねぇ、これこれほら」

悲鳴をこらえるのがやっとでした。声はどれもこれも耳たぶのうしろ数センチのところから聞こえてきます。なのに誰もぼくの身体には触ろうとしないのです

ただ言葉だけで圧倒的に明るい楽しそうな声だけで必死でぼくを振り向かせようとするのです

悲鳴が聞こえました。誰が叫んでいるのかとよく耳をすませば、ぼくが叫んでいるのです。背後の声はだんだんと狂躁的になってきてほとんど意味のない笑い声だけです

そのときてのひらにがちゃんと何かが落ちてきました。重くて冷たいものでした

鍵です。ぼくは知らないうちに鍵をあけていたのでした。うれしいよりも先に鳥肌のたつような気分でした。やっと出られる。闇の中に手を伸ばし鉄格子を押します。ここをくぐれば本の数メートル歩くだけで表の道に出られる…

一歩、足を踏み出したそのとき

背後の笑い声がぴたりと止まりました。そして…最初に聞こえた中年男の声が低いはっきり通る声でただ一声

「おい」

−終わり−

何だか一言落ちみたいになっちゃいました(汗

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