●怖い噺 七


□海から来る者
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普段付き合いのいい同僚が何故か海へ行くのだけは頑として断る

訳を聞いたのだが余り話したくない様子なので飲ませて無理やり聞き出した

ここからは彼の語りをまとめた物

まだ学生だった頃、友人と旅に出た真冬に

旅とは言っても友人の愛犬と一緒にバンに乗って当てもなく走っていくだけの気楽なもんだ

何日目だったか、ある海辺の寒村に差し掛かったころ既に日は暮れてしまっていた。山が海に迫ってその合間にかろうじてへばり付いている様な小さな集落だ

困ったことにガソリンの残量が心もとなくなっていた

海岸沿いの一本道を走りながらガソリンスタンドを探すとすぐに見つかったのだが店はすでに閉まっている

とりあえず裏手に回ってみた

玄関の庇から大きな笊がぶら下がっている

出入りに邪魔だなと思いながらそれを掻き分けて呼び鈴を鳴らしてみた

「すんませーん。ガソリン入れてもらえませんかー?」

わずかに人の気配がしたが返事はない

「シカトされとんのかね」

「なんかムカつくわ。もう一度押してみいや」

「すんませーん!」

しつこく呼びかけると玄関の灯りが点きガラス戸の向こうに人影が現れた

「誰や?」

「ガソリン欲しいん…」

「今日は休みや」

オレが言い終える前に苛立ったような声が返ってくる

「いや、まぁそこを何とか…」

「あかん。今日はもう開けられん」

取り付く島もなく諦めて車に戻る

「これだから田舎はアカン」

「しゃーないな今日はここで寝よ。当てつけに明日の朝一でガス入れてこうや」

車を止められそうな所を探して集落をウロウロするとガソリンスタンドだけでなく全ての商店や民家が門を閉ざしていることに気付いた

よく見るとどの家も軒先に籠や笊をぶら下げている

「なんかの祭やろか?」

「それにしちゃ静かやな」

「風が強くてたまらん。お、あそこに止められんで」

そこは山腹の小さな神社から海に向かって真っ直ぐに伸びる石段の根元だった。小さな駐車場だが垣根があって海風がしのげそうだ。
鳥居の陰に車を止めると辺りはもう真っ暗でやることもない

オレたちはブツブツ言いながら運転席で毛布に包まって眠りについた

何時間経ったのか、犬の唸り声で目を覚ましたオレは辺りの強烈な生臭さに気付いた。犬は海の方に向かって牙を剥き出して唸り続けている

普段は大人しい奴なのだがいくら宥めても一向に落ち着こうとしない

友人も起き出して闇の先に目を凝らした

月明りに照らされた海は先ほどまでとは違って気味が悪いくらい凪いでいた。コンクリートの殺風景な岸壁の縁に蠢くものが見える

「なんや、アレ」

友人が掠れた声で囁いた

「わからん」

それは最初、海から這い出してくる太いパイプか丸太のように見えた

蛇のようにのたうちながらゆっくりと陸に上がっているようだったが不思議なことに音はしなかった

と言うよりそいつの体はモワモワとした黒い煙の塊のように見えたし実体があったのかどうかも分からない

その代わりウウ…というかウォォ…というか形容し難い耳鳴りがずっと続いていた。そして先ほどからの生臭さは吐き気を催すほどに酷くなっていた

そいつの先端は海岸沿いの道を横切って向かいの家にまで到達しているのだがもう一方はまだ海の中に消えている

民家の軒先を覗き込むようにしているその先端には、はっきりとは見えなかったが明らかに顔のようなものがあった

オレも友人もそんなに臆病な方ではなかったつもりだがそいつの姿は「禍々しい」という言葉そのもので、一目見たときから体が強張って動かなかった

心臓を鷲掴みにされるってのはああいう感覚なんだろうな

そいつは軒に吊るした笊をジッと見つめていたがやがてゆっくりと動き出して次の家へ向かった

「おい、車出せっ」

友人の震える声でハッと我に返った

動かない腕を何とか上げてキーを回すと静まり返った周囲にエンジン音が鳴り響いた

そいつがゆっくりとこちらを振り向きかける

(ヤバイっ)

何だか分からないが目を合わせちゃいけないと直感的に思った

前だけを見つめアクセルを思い切り踏み込んで車を急発進させる

後部座席で狂ったように吠え始めた犬が「ヒュッ…」と喘息のような声を上げてドサリと倒れる気配がした

「太郎っ!」

思わず振り返った友人が「ひぃっ」と息を呑んだまま固まった

「阿呆っ!振り向くなっ!」

オレはもう無我夢中で友人の肩を掴んで前方に引き戻した

向き直った友人の顔はくしゃくしゃに引き攣って目の焦点が完全に飛んでいた

恥ずかしい話だがオレは得体の知れない恐怖に泣き叫びながらアクセルを踏み続けた

それから、もと来た道をガス欠になるまで走り続けて峠を越えると朝を迎えたのだが、友人は殆ど意識が混濁したまま近くの病院に入院し一週間ほど高熱で寝込んだ

回復した後もその事について触れると激しく情緒不安定になってしまうので振り返った彼が何を見たのか聞けず終いのまま卒業してからは疎遠になってしまった

犬の方は激しく錯乱して誰彼かまわず咬みつくと思うと泡を吹いて倒れる繰り返しで可哀そうだが安楽死させたらしい

結局アレが何だったのかは分からないし、知りたくもない

ともかくオレは海には近づかないよ

以上が同僚の話

昔読んだ柳田國男に、笊や目籠を魔除けに使う風習と海を見ることを忌む日の話があったのを思い出した

−終わり−

ホント海は怖いよ
未知なる世界だもん…そして命の始まり

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