●怖い噺 四


□悲しい事故
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T県を流れるK川の周辺は毎年夏になるとバーベキューやキャンプを楽しむ家族連れや若者たちで
まるで大きな街中にいるような大にぎわいとなる

A大学のあるアウトドア系サークルも夏のキャンプ合宿にこの地を選び、2日前から生活をしていた
食事担当のAさんは水を汲みにいったときに隣のバンガローにいるグループからある噂を聞いた

2、3年前から、ときどき深夜になると誰もいないはずの川に一艘のカヌーが音も無く漕ぎ出すというのだ
しかもそのカヌーには誰も乗っていないという

今回の合宿メニューにはカヌーでの川下りも含まれている
この手の話は夜の宴会の恰好のネタだった
Aさんもさっそくその日の夜の宴会のときにみんなにこの話をした

「その誰も乗ってないカヌーは音もたてずに下流に向かってのろのろと進んでいくらしいよ…」

みんなビールを飲んだためか顔がやや赤らんでいる
昼間の暑さがまだ残るなか、川の水が岩にあたってはねる音やどこかで花火を楽しんでいるざわめきが聞こえてくる
明日はいよいよみんなで交替しながらカヌーで川を下る日だ

そして次の日
川下りは予定通り始まった

Aさんはカヌーから降り次の順番の人にヘルメットやライフジャケットを手渡した

なかなかいいコースに当たったな
けっこうスリリングな早瀬もあったし、10回くらいは沈するぐらいのところじゃないと楽しめないよなと
濡れたTシャツを脱ぎ仲間が渡してくれたタオルで体をふきながらAさんは思った

「沈」というのは、カヌーがぐるりと上下逆さになってしまうことである
カヌーの場合ボート型のものと違い転覆しても沈んでしまうことはない
仮にこういう状態になってしまった場合は、こぎ手は水中で船体から抜け出す
上級者だとパドルをうまく使い抜け出さずにカヌーを元の姿勢に戻すこともできる

さらに下流に下っていく仲間を見送っていると、川岸でキャンプ地の管理人が何かにお花を供えているのが見えた

それが妙に気になってAさんは声をかけた

「あの昨日カヌーの変な話を聞いたんですけど…噂って本当なんですか?」
「噂って…?ああ、そうか。いや、夜のカヌーの話ならただの噂でしょう。私は見たこともありません」
「でも、何かあってのことじゃ…それに、その花は…?」

Aさんの言葉にまだ若そうな管理人は今供えた花に目をやると、ついで下流のほうを見つめるように顔をあげつらそうな表情でポツリと言った

「いや、これは私の友人のためのものなんです」
そして5年前の事故の話をはじめたのだった

当時K川のその一帯は夏休みに入るまでの期間は禁猟区で釣り人もおらず、カヌーの練習場専門となっていた

そのときも東京のある大学が合宿で来ていた

それは雨が多い夏で、1週間も降り続いた雨がちょうどあがった日のことである
雨で思うような練習ができないうさを晴らすように大学の部員たちは練習に没頭していた

のんびりとした川下りではなく、あえて荒い瀬を含む1kmほどのコースを選んでいた
スタート地点は本流がU字型にゆったりと蛇行するそのあいだを直線的につなぐ、およそ50mほどの白く泡立つ急流があったかなりの瀬であったのだが、部員たちは巧みなパドルさばきで次々とそこを下っていく

最後にまた一艘のカヌーが流れに漕ぎ出した
かなりのスピードで岩をよけ滝のように落ち込む流れもうまくいなしながら進んでいく

その時「キャーッ!」という数人の女性の叫び声があがった
そのカヌーがひっくり返ったのだ
しかしそれは悲鳴ではなく笑い声もまじった余裕のある声だった

なぜかというと、それはベテランの地元インストラクターBさんのカヌーだったからだ

Bさんのキャリアからいって、こうした状況など珍しくもないし安全のための装備もおこたらない
いりくんだ大岩と木々で瀬の上から彼の姿は見えなかったがすぐに脱出して川沿いにのんびりと下りてくるはずだった

そのため、むしろBさんのことよりも流れていくカヌーとパドルの方が気になった

操縦者を失ったカヌーはときどき岩にぶち当たって方向を変えながら流されていく
さらに下流の上陸ポイントには先行した部員たちがいるはずだがそこまでの間で何かに引っかかってしまうと探し出して回収するのが面倒だ

車でサポートする側にまわっていたもう一人のインストラクターであるCさんはそう判断すると
残ったマネージャーたちを車に乗せ上陸ポイントに先回りすることにした
10分後Cさんが部員たちを集めて事情を話していたちょうどその時転覆したままのカヌーが対岸の水がグルグルと淀んでいるところで「ゴッ!」という鈍い音と共に突然止まった

「もう本当にBさんも迷惑かけてくれるよな」
「まあまあBだって、おまえらの手前今頃バツの悪い思いをしてるよ」

それぞれ軽口をたたきながらCさんと3人の部員がカヌーをつかまえようと水の中へ入っていった
川の水はひんやりと冷たくカヌーの側まできた4人は転覆しているカヌーをひっくり返して起こそうと手をかけた

「あれ?やけに重いなあ」

いつもなら簡単にひっくり返るはずのカヌーが妙に重かった
そこで号令をかけ一気に全員でひっくり返すことにした
「いいか、いくぞ…いっせの!」
4人は反動をつけて思い切りカヌーをひっくり返した

「…うわあああっ!!」

そこには…人間の胴の断面があった
…上半身はない

断面といっても強引に引きちぎられたような無残なもので下半身だけがカヌーの小さな操縦席におさまっている
残された胴にはわずかに臓器がへばりついていたが水で洗われたせいかそのほとんどを失い血の一滴もない

チャプンチャプンとカヌーごと揺れながら、それは水に濡れ夏の陽に光っていた

器のようにくぼんだその肌色の腹腔の内側に血の気のない血管が網の目のように走っているのが見てとれ、かえってそれが非現実的な人体模型の内部のようだった

カヌーが転覆した瞬間水中の岩に頭が激突しBさんは意識を失いそのまま急流に押し流され、次々と岩が…頭をもがれ、腕をもがれ、肩を削られ、胴をえぐりとられてしまったのだろうか…

誰もがその受け入れがたい現実に呆然としていると、まっすぐに起こされたカヌーが再び水に乗って流れ出した

しかしもう誰も動く事ができなかった

放心状態でただ流れていく無人の…いや…胴体の下半身だけが乗っているカヌーを見つめていた
いつしかカヌーは視界のはるか下流に消えていった

「その後あらためて警察による捜索がなされたんだが、結局そのカヌーも彼の下半身も見つからなかったんだよ…」

そこまで語るとそのCという管理人は立ちつくすAさんに背を向け上流の方へゆっくりと歩み去って行った

−終わり−

これは霊的なお話しではありませんが
実際に事故が起きた所では、こうして怪談が作られ
人から人へと継いでいくのです

でも、いったい死体はどこへ行ったのか

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