●怖い噺 六


□手鏡の中
1ページ/1ページ


何年か前の蒸し暑い夏の夜のこと
室外機の調子が悪かったのでクーラーを動かせず、仕方が無いのでベランダの窓を開けて寝付かれないまま本を読んでいたのです

生ぬるいとはいえ夜の風が流れ込んできたし少し離れた場所にある街道の騒音もそれほど気にはならなかった

ただもう後数時間で夜が明けるという時刻もあって、赤信号が重なるのか数分に一度ふと静寂が訪れる瞬間があったのです

「チリン」という鈴の音が風に乗って聞こえたような気がしたのも、そんなぽっかり空いた隙間のような静けさの中でした

車の音があれば気がつかないようなかすかな音で、風に運ばれてきたどこか遠くの音のように聞こえました

最初はどこかの風鈴か何かだろうと思って読みかけの本に目を落としたのですが、なにか気になってふと静けさが訪れると無意識に耳を澄ますようになっていました

すると、やはり気のせいではなく鈴の音が聞こえるのです

しかもその音がゆっくりと近づいてくるのがわかったときには、ぞわっと背筋に寒いものが走りました

というのもこの部屋はマンションの12階なのです

鈴を鳴らしている何かは、どうやってこちらに近づいているのでしょうか?

実はこのマンション、というかマンション群は郊外のこの辺りでは目立つせいなのか
飛び降り自殺が多いので地元では有名でした

その年もすでに二件飛び降りがあって、一人は住人の中年男性、もう一人は同じ沿線に住む若い女性だったとか

そして年に数回ある飛び降りのほとんどが夜というのも奇妙な感じで、近所の方も「やはり昼は下が見えるから怖いのかしら」など話していたのを覚えています

もっとも、それまで霊体験などなかった私はあまり気持ち良いものではありませんでしたが、それほど深く気にしていたわけではなかったのです

「チリン」鈴の音はずいぶん近くで聞こえるようになりました

ちょうど2、3階下の辺りで鳴っているような感じです

ぞっとしたのですが、どうしても気になってしまいベランダに出てみよう、そう決心しました

ベランダには胸の高さほどの転落防止のための手すりがあるので下を見るにはそこから頭を出して覗きこまなければいけないのです

そのとき、本当に偶然だったのですが近くの薬局でもらった鏡が目に入りました

安っぽい青色のプラスチックの枠がついていて、その薬局の名前が入っているような手鏡

後で考えれば田舎の祖母の「鏡にはこの世ならざるものが映るんだよ」という言葉を覚えていたからかも知れません

とにかくサンダルを足に引っかけ、その鏡を持ってベランダに出たのです
相変わらず生ぬるい風が吹いており、手すりが不透明なので見えないのですが鈴の音はもうほんの足元近くのように聞こえます

私は左手で手すりの上を掴み、下の様子が映るように鏡を斜めに持った右手を外に向かって伸ばしました

その瞬間、鏡がもぎ取られるように手から離れていったのです

声にならない悲鳴を上げて慌てて家の中に逃げ込みましたが、ガラス戸を閉める前に下の方でガシャンという鏡の割れる遠い音が聞こえました

マンションに住む人ではなくてもご存知でしょうが、この高さから落とせばどんなものでも凶器となりえます
ですから本来はすぐ確認すべきなのですが、その時は気が動転してベットの中で夜が明けるまで震えていたのです

なぜなら一瞬の間ですが、手すりから突き出した鏡には暗闇の底から伸びている真っ白な無数の手が映っていたからです…

それ以来、夜になると全ての窓に鍵をかけカーテンを引く生活が続いていますが、もしあのときに身を乗り出して下を覗いていたら地面に叩きつけられていたのは鏡ではなくて私だったのかも知れない、今でもそう思うのです

−終わり−

夜中に鏡に写るのは
果たして自分の顔なのでしょうか…

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ