●怖い噺 弐


□牛の首
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最近まで只の噂と思っていた怪談なのですがとある口伝でこのような話を仕入れてしまいました。自分だけ聞いておくにはまことに惜しい話なのでお伝えいたします。それは『牛の首』でございます

牛の首の怪談とはこの世の中で一番怖くまた有名な怪談であるがあまりの怖さ故に語った者、聞いた者には死が訪れる。よってその話がどんなものかは誰も知らないという話

私も長い間はこんなのは嘘だ出鱈目だ一人歩きした怪談話さと鷹を括っていたんですがまあお聞きください

明治初期、廃藩置県に伴って全国の検地と人口調査が行われた。これは地価に基づく定額金納制度と徴兵による常備軍を確立するためであった

東北地方において廃墟となった村を調査した役人は大木の根本に埋められた大量の人骨と牛の頭らしき動物の骨を発見した。調査台帳には特記事項としてその数を記し検地を終えるとそこから一番近い南村へと調査を移した

その南村での調査を終え村はずれにある宿に泊まった役人はこの村に来る前に出くわした不可解な骨のことを夕食の席で宿の主人に尋ねた

宿の主人は関係あるかどうかは分からないが…と前置きをして次の話を語った

以下はその言葉を書き取ったものであります

天保3年より数年にわたり大飢饉が襲った俗に言われる天保の大飢饉である

当時の農書によると「倒れた馬にかぶりついて生肉を食い、行き倒れとなった死体を野犬や鳥が食いちぎる。親子兄弟においては情けもなく食物を奪い合い畜生道にも劣る」といった悲惨な状況であった

天保4年の晩秋夜も更けた頃この南村に異形の者が迷い込んできた

ふらふらとさまよい歩くその躰は人であるが頭部はまさしく牛のそれであった。数人の村人がつかまえようとしたその時松明を手にした隣村のものが十数人現れ鬼気迫る形相にて

「牛追いの祭りじゃ、他言は無用」

と口々に叫びながらその異形の者を捕らえ闇に消えていった

翌日には村中でその話がひそひそと広がったが誰も隣村まで確認しにいく者はいなかった

またその日食うものもない飢饉の有様では実際にそれどころではなかた

翌年には秋田藩より徳政令が出され年貢の軽減が行われた。その折に隣村まで行った者の話によるとすでにその村に人や家畜の気配はなかったとのことだった。それ以後「牛の村」とその村は呼ばれたが近づく者もおらず今は久しくその名を呼ぶ者もいない

重苦しい雰囲気の中で宿の主人は話し終えそそくさと後片づけのために席を立った

役人はその場での解釈は避け役所に戻り調査台帳をまとめ終えた頃懇意にしていた職場の先輩に意見を求めた。先輩は天保年間の村民台帳を調べながら考えを述べた

大飢饉の時には、餓死した者を家族が食した例は聞いたことがある。しかしその大木のあった村では遺骸だけではなく弱った者から食らったのであろう

そして生き人を食らう罪悪感を少しでも減らすため牛追いの祭りと称し牛の頭皮をかぶせた者を狩ったのではなかろうか

おまえの見た人骨の数を考えるとほぼその村全員に相当する。牛骨も家畜の数と一致する

飢饉の悲惨さは筆舌に尽くしがたい。村民はもちろん親兄弟も凄まじき修羅と化しその様はもはや人の営みとは呼べぬものであったろう

このことは誰にも語らずその村の記録は破棄し廃村として届けよ

また南村に咎を求めることもできまい。人が食い合う悲惨さは繰り返されてはならないがこの事が話されるのもはばかりあることであろう

この言葉を深く胸に受け止めた役人はそれ以後誰にもこの話は語らず心の奥底にしまい込んだ

日露戦争が激化する頃病の床についたこの男は戦乱の世を憂い枕元に孫たちを呼び寄せ切々とこの話を語ったという

この孫の中の一人が自分である。当時は気づかなかったが祖父が亡くなった後に分かったことがあった

何の関係もないと思われた南村の者が隣村の民全員を牛追いの祭りと称して狩り、食らったのが真実である。そうでなければ全員の骨を誰が埋められるものか…

それゆえ牛の首の話は繰り返されてはならない事だが話されてもならない話であり呪いの言葉が付くようになった

誰の口にも上らず内容も分からぬはずであるが多くの人々が「牛の首」の話を知っている

物事の本質をついた話しはそれ自体に魂が宿り広く人の間に広まっていくものである

−終わり−

今の時代の人たちは贅沢しすぎです
今でも外国では飢饉に苦しんでいる人々がいます
この怪談が伝われば、現代社会人の無駄な物への…兎に角
飢饉について考えないと…まずは募金

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