短 編 集
□忘れられない恋の話
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この家を訪れるのは久方ぶりだ。
母の実家…。現在は母の弟にあたる俺の叔父が一人で住んでいる。
祖父母が生きていた時分には俺も母に連れられ度々訪れることがあったのだが、最近はすっかり足が遠のいていた。
今日訪ねることは知らせてあったし、つい子どもの時分からのクセで、常に施錠されている玄関ではなく裏木戸を潜り母屋へと足を運ぶ。と…濡れ縁に着物姿の見慣れない若い男が純白の足を顕にぶらぶらさせながら座っていた。
風変わりな銀色の髪をした…えらく綺麗な男だ。家の主が日本画家なだけにモデルかなと思い会釈したらば。その男はひどく驚いた顔をして「俺のこと見えるの?」などと宣う。
「当たりめぇじゃねえか」
じゃあ今目の前に見えてるのはなんだって言うんだ。
訝しく思いつつ、改めてそいつに目を向ける。俺の事を不思議そうに見ている紅い瞳…。
「十四郎ー?着いたのかァー?」
自分を呼ぶ声に一瞬振り向き…視線を戻すと彼の姿がない。驚きで息が詰まった。
なんなんだ?いったい……。
首を傾げながら、呼ばれるままに居間へ入ると、正面の壁に1枚の古い絵が。
そこにはさっきの紅い瞳が描かれていた。
凝視する俺に「いい絵だろう?」と叔父は言い、自身も目を細めてその絵を見つめた。
こと絵に関しては妥協を知らない彼がこんなふうに言うなんて余程気に入っているのだろう。
「それで?貴方も彼をモデルに?」
「そう出来ればいいが…それは無理だ…」
そう答えた彼は何故か遠くを見るような目をしていた。
「俺は仕事に戻るが折角来たんだ、ゆっくりしていくといい」
そう言って叔父が仕事場に消えた後も俺はじっと絵を見つめ続けていた。さっき見た男のことが気になって仕方がない。
「俺が見えるの?」と不思議そうに訊いた彼。絵と同じ紅い瞳。そして叔父の言葉…
ふと浮かんてしまった非現実的な想像を頭を振って追い払う。
モデルを断られたのだ。きっとそうに違いない。
ならば…もう一度頼んでみよう、と思った。俺は絵に関しては素人で今まで叔父の仕事に口出しをしたことなどない。が…彼を描かないなんて勿体無い。そう思えてならなかった。
それほどまでに…彼は印象的だった。ひと目見ただけなのに、その姿は俺の瞼にしっかりと焼きつき…以後ことあるごとに脳裏に現れた。
もう一度…会えないものだろうか……?
もう一度…。
もう一度……。
そんな思いに突き動かされて。俺は何かにつけて叔父の家を訪れるようになった。
その衝動がどこから来るのかわからないまま…。
* * *
そうして幾度も足を運んだが、あれっきり銀髪の男には会えていない。
本当はそんな男なんていなかったのかもと思いながら庭を歩いていると薄暗い部屋にフワッと白い影が見えた。
慌てて部屋を覗くと、あの男がキョトンとして俺を見る。
「いたっ!」
思わず声を上げると、男は猫みたいに目を細めて愉快そうに笑った。
幾度か瞬きをしても男は消え無かった。
「幻じゃあ無かったんだな」
安堵と共に独りごちると男はくるりを背を向けた。
「ちょっ…おめぇっ!」
急いで靴を脱ぎ畳の上に足を滑らせ白い手を取る。すると相手はびくりと肩を震わせた。
「おめぇ…触ることも?」
そう言った男の姿は壁に掛けられた鏡に映ってはいなかった。
まさか…と思う反面、どこかで"あぁ…やっぱり"と思っている自分がいた。しかし、今の俺にとっては奴が何者だろうとそんなことはどうでもよかった。
会いたい、会いたいと…そればかり考えていたんだ。あの日からずっと…。その相手が目の前に居て、こうして触れている…それ以上に大事なことなんてないような気がした。
無意識に掴んだ手を引っ張ってしまったらしく、男は「わ…!」と短く声を上げ、つんのめるように俺の胸に倒れこんできた。
「わ、悪ィ」
咄嗟にそう呟いたものの、何故だか無性に手離し難くて。
そっと抱き締めると男はそれに逆らうことなく腕の中に収まり、「なんか…こぉいうの、久しぶり…」と擽ったそうに呟いた。
* * *
男は銀時と名乗り、どうやら今の自分は絵に取り憑いている感じの存在らしいと話した。これがどういう状態なのかどうしてそうなったのか、自分でもよくわかっていないらしい。
「もしかしたら、だけど…強く強くそう願ったから…?とか…かもしんない」
曖昧に言い、伏し目がちに微笑む。
誰が、と彼は言わなかったけれど、おそらく今現在こうして銀時を宿しているあの絵を描いた人物に他ならないだろう。
それは叔父の師であった男。聞けば銀時の養父でもあったという。
きっと彼はこの紅い目の青年を深く深く愛していたのだ。そして願ったのだろう。叶うことならば…己の描く絵のように。時とともに朽ち果てることなくいついつまでもこの世に在り続けてほしい、と…。
描いたものに生命を宿すと言われた天才画家・吉田松陽。その彼が切なる祈りとともに文字通り精魂込めて描いた作品ならば…なるほど、こんな奇跡を起こすこともあるのかもしれない。
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