初めて彼に会ったのは、まだ暑さの残る、9月の初めのことだった。
あの頃の僕は、マフィアの孅滅や世界大戦という、底知れない闇にとりつかれていた。彼のことも、マフィアのボス候補として、ただ利用しようと、身体が手に入ればいいと思っていた。
戦ってみると余りに弱かった。
そうかと思えば、驚くほど強かった。
彼の純粋な炎を、手に入れたいと思った。
忌々しいマフィアからもたらされたこの力で、彼という人形を操ることで。
だがそれは叶わなかった。
彼は僕を遥かに凌駕し、鮮やかに勝ってみせたのだ。
彼の炎に焼かれて、牢獄に入れられたわりには、不思議と気分は悪くなかった。
まるで喉の奥に刺さっていた、魚の小骨がとれたような、そんな解放感が僕を包んでいた。
ずっと、僕の腹の中には人間に対する憎悪とか、復讐だとか、そういったものがとぐろをまいていて、僕の腸や胃なんかを絞め上げていたのだが、その圧迫感がまるで無くなったような、そんな気がした。
だから非常に気分がよかったのだろう。
千種や犬と、脱獄する気にもなった。
彼にもう一度会って、ゆっくりと話をしてみたかったのだ。この解放感の理由を、彼に会うことで確かめたかったのかもしれない。
しかしヴィンディチェの牢獄は、さすがに甘くはなかった。
追っ手は次々やってくる。
後ろ手に千種と犬を見た。二人とも、もう限界だった。
その時、彼の顔が浮かんだ。
彼だったら。
彼だったら。
彼のようにしてみるのも、悪くないと思った。
再び連れ戻され、水牢に入れられても、不思議なことに気持ちは今までに無いくらい穏やかだった。
だが、僕の深すぎる憎しみの炎は、再び燃え盛ることとなる。この胸の闇は、きえてはいなかったのだ。
数日後、彼のファミリーの男が、僕を彼の守護者にと、やってきた。
千種と犬との安全を約束するという、条件のかわりに。
言い換えてみれば、それは都合のいい人質だった。
引き受けてもよかったのだ、そんなことをしなくとも。
…彼のためならば。
それなのに。
例え彼が意としたことではないとわかっていても、再びマフィアへの憎しみを思い出さずにはいられなかった。
所詮この世は地獄なのだ。
人の住まう現世など。
この世は美しいとほざく者の、
なんと愚かなことだろう。
紅蓮の炎に身を焼かれるような苦しみを味わったことのない者に、いったい何がわかるというのだ。
やはり、壊さねばなるまい。
この世界に、暗黒を!
「骸!」
どこかで聞いた声がした。
「お前、大丈夫なのかよ!そんな冷たい、暗いところに独りで!」
彼の声、だ。
僕の心を見たのか。
あの幻術を通して。
超直感とは、恐ろしい。
彼は気づいていないのだろう。
彼が僕の記憶を覗いたように、僕も彼の心を覗いたことを。
彼は心の中でつぶやいただけだったろうに、まるで僕にむかって言ったかのように、僕の心にはっきりと聞こえた。
彼は僕を心配しているのか?
…なんて甘い。
同じ霧の術師の赤ん坊を倒した。
彼は僕の身を案じているようだったが、彼の部下は警戒していた。
それでいい。
些か彼には、人を信じすぎるところがあるようだから、警戒心が強すぎるくらいの部下がいたほうがいいのだ。
何故か身にまとう水が温かくなった気がした。
この心情に名前をつけるのは、もう少し後になってからでもいいだろう。
せめて、彼に逢うまでは。
END
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