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□幸福ひとつ
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積み重ねられた書類の山。流石に一日中、遊びほうけていられるはずもなく、スティングはマスター専用の執務室で黙々と事務に勤しんでいた。人に言うと意外がられるかもしれないが、スティングはこういった書類仕事が実は嫌いではない。好きかと問われるとそれはそれで微妙なのだが。
「とは言っても……、多いな」
書類の山は一向に減る気配なし。確実に一枚一枚と処理はされているのだが、何分、数が数だ。こういった時、手伝ってくれる人間を頭の中で思い浮かべて、即座にその考えを否定する。
「……あの。スティング様?」
遠慮がちなノックの音と、扉の向こうから聞こえる澄んだ声。
噂をすればなんとやら、飛んで火に入る夏の虫。…って、違うだろ。あまりにもタイムリーな登場に、思考が別のところへと飛んだ。
「……どうぞ」
「失礼します」
静かに開いた扉の向こう、しっとりと濡れた銀髪が真っ先に目に入る。
「どうした?」
「えっと……、何かお手伝いが出来ればと」
…本当に、なんてタイミングのいい。
―――けれど。
「いいよ、気にすんな。お前だって疲れてるだろ?」
胸の内で、くすぶる想い。認めてしまったことで、彼女の前に立つのが酷く心苦しい。
「…私はお邪魔ですか?」
「……………。お前、どこでそんな高度な技術、身につけてきた?」
「今でしょうか?」
「……はー、参った」
そんな風に言われて、無碍に追い返すことなど出来るはずがない。両手を上げて降参の意を示せば、ユキノは満足げにクスリと笑う。まったく、どんどん良い女になっていきやがる。
「本当はですね、少しお話がしたいなと思って来たんです」
「は?」
ソファーに落ち着いて、彼女の口から放たれた言葉にスティングは眉を顰めた。確かに、最近ではよく会話をするようになったし、自分とてユキノと話すことが嫌なわけではない。寧ろ本当はその逆で…。だけど、こんな二人っきりのタイミングで改めて切り出されてしまうと、必要以上に構えてしまう。
「あ、お仕事をお手伝いしたいというのも本当ですよ?」
「や、それは別に…」
いいんだけど…。もごもごと口ごもって、うなじを掻く。
色素の薄いユキノの瞳が真っ直ぐに自分を射抜くのを感じて、…ああもうなんだってこんな事になってしまったのか。最終的に部屋に招いたのはオレだというのに、居心地が悪くて堪らない。ユキノが笑う。ユキノの笑顔は好きだ。見ていると安心する。アイツが笑うとオレまで釣られて笑ってしまいそうになる。好きだ。好きだけど。―――好きだから、戸惑ってしまう……。
「色々考えてみたんですけど、よく…分からなくて」
「……何が?」
「スティング様は、私が優しいと思いますか?」
ヒュッと、息が詰まる。
ユキノの優しさは、誰にでも分け隔てなく与えられる。それはオレも例外ではなく。―――だけど、それがオレにとっては不思議でならない。その笑顔が自分に向けられることに、罪悪感さえ感じてしまう。どうして笑っていられるのか。どうして、自分に笑顔を向けられるのか。
「……思うよ。優しいっていうか、甘いなって…」
怒っていい。責めてもいい。詰ったっていいのだ。それだけのことを、してきた自覚はある。いつだってオレは、周りに無関心で、無神経に他人を撥ねつけてきた。
それなのに。
「私には、スティング様のほうが甘いように思えますけど」
「はあ??」
突拍子もない、あまりにも意外な言葉に眉根を寄せる。
なんだってそんな認識になったのか。まったくユキノという女は自分の予想斜め上をいってくれる。
「甘いですよ。スティング様は、私にとびっきり。私はいつも甘えてばかりです」
「……よく、分からねえんだけど」
「自分じゃ分からないものなのかもしれませんね」
オレが優しいというのなら、それは彼女に対する罪悪感から来るものでしかない。それは、ユキノに与えられるべき当然の厚意だ。それを甘いと称すのか、コイツは。
「……私は、いつも逃げてばかりでしたから」
―――今、思い返しても自分に呆れてしまうくらい。周りの不幸を全部不運のせいにして、逃げて、膝を抱えて、泣いてばかりだった過去の自分。
あの時だって……―――。
「私を引き止めてくれたのは、スティング様でしょう?」
背中を向けて逃げ出そうとした私を、止めてくれたのは貴方だけ。遠慮がちに彷徨っていた視線も、最後には私を真っ直ぐに映してくれた。嬉しかったの、本当に、凄く。驚いて、戸惑って、困惑して。だけど残ったのはどうしようもない歓喜。
「私が優しいと言うなら、それはスティング様が私に甘いからですよ」
甘やかされると、優しくしようと思う。好意を向けられると、好意で返そうと思う。いつだって受け身体制な私は、相手の行動を待ってばかり。だけど最近は、相手の顔色なんて窺う暇もないくらい楽しいことばかりで、今だって、こうしてスティング様の元へ訪れて、私の身勝手なお話を聞いて貰っている。こんなにも大胆になれたのは、彼のおかげ。少しの我が儘なら、受け入れてくれると、知ってしまったから。
「なんか…、そうやって言われると……、オレが良い人みたいに聞こえるんだけど…」
「間違っていますか?」
寧ろ間違いだらけではなかろうか。
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