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□はちみつミルク
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―――ガッシャーン
「っ…!!」
掌から滑り落ちたマグカップが、乾いた音をたてて地面に落ちた。破片が辺りに飛び散り、床を白く汚していく。その光景に、サッと体中の血の気が引いていくのが分かった。
「あ…」
寒気はない。寧ろホットミルクのおかげで体は十二分に温まっている。
それなのに、指先の震えが止まらない。
「………何やってんの?」
キッチンの奥、訝しげに眉を顰めたスティングが、破砕音を聞きつけて出て来た。
震えは一層増して、理由の分からない恐怖心がユキノを襲う。カタカタと震える体を、外敵から庇うように抱き締めた。
「ごめ、なさ。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…!」
「ユキノ?」
手を伸ばせば、ビクリと華奢な体が跳ねる。まるで、小さな子どもが親の説教に怯えているかのような。体を丸くすることでしか身を守る術を知らない目の前の幼子に、スティングはどうしたものかと頭を掻いた。
(とりあえず、片付けは後回し…か)
目の前のユキノを、放ってなどおけるはずもない。
深く息を吐き出して、ユキノの隣に腰を下ろす。ギシリとベッドが悲鳴をあげる。そんなスティングの一連の行動に、ユキノは一気にパニックに陥ってしまった。
いやだ、迷惑ばかり。誰か、誰か。謝らなきゃ。早く。もう嫌。一人にしてよ。ごめんなさい、違うの、違うの。スティング様。スティング様。ここに居て。いやだ。姉さん。姉さん姉さん姉さん。ごめんなさい。ごめんなさいおとーさんごめんなさいおかーさん。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
「おまえは悪くないよ」
目を見開いて、顔を上げた。
何、何が―――。
その言葉に、呆然とスティング様の顔を凝視する。はらはらと落ちる涙が頬を濡らしていくけれど、そんな事は微塵も気にならなかった。
「な、に」
「ユキノは悪くねぇ」
「ユキノは悪くないゾ」
いつかの姉の言葉が、目の前の彼と重なる。
違う。いつだって悪いのは私だった。そんな私を庇ってくれた姉を、私は…―――。
「違い、ます。私、わたくし…」
「おまえが悪いって?おまえの大好きな“ソラノ姉さん”が言ったのか?」
「っ…」
彼の口から紡がれる姉の名に、ヒュッと息を飲む。
薄明かりの下、空より濃い藍色の瞳が鋭利な光を伴ってユキノを貫いた。彼のこんな厳しい顔は、久方ぶりに見たような気がする。それでも、その瞳に恐怖心など微塵も湧いてこなかった。この瞳は、自分を傷付けるものではないことを、私はもう既に知っている。
「エンジェルって言ったか?まあ境遇だけ聞いたなら同情は出来るかもしれねぇけど。―――六魔将軍が過去に何をしてきたか教えてやろうか?」
「…めて」
「たった6人で1ギルドを賄っていた連中だ。闇ギルドの非道さならおまえも知ってるだろ?エンジェルとやらも例外に漏れちゃいねーよ。一体何人の命を食い物にしてきたか。過去の被害なら資料にも残ってる。今度見てみるか?おまえの姉さんとやらが犯した罪ってやつ」
「やめてください…!!」
耳を塞いで、全ての音を拒絶する。それなのに、音は指の隙間を縫ってユキノの聴覚を刺激した。聞きたくない。聞きたくなんてないのに。
「聞け」
腕を掴まれ、振り払おうと込めた力はいとも簡単に抑えつけられる。
やめて、やめて。
譫言のように繰り返すも、優しい彼は止めてくれない。
「おまえの知ってる綺麗な姉さんなんて、もう居やしねぇよ」
「や…」
「誰かを騙し、誰かを操り、誰かを殺す。金も宝も、命も、平然と奪ってきた女が今のおまえの姉さんだ」
「…嫌……っ」
「そんな女のために、どうしておまえが傷付く?」
「違う…姉さんは違うんです」
「違わねぇ。ソラノのせいで、おまえがおまえ自身を責めるなら、オレはそれ以上におまえの姉さんを貶めてやるよ」
どこまでも私を甘やかす、―――彼の言葉は麻薬のように私の体に染み渡る。
「ユキノは何も悪くない」
限界、だった。
「ひっく……、ぅ」
己の弱さを省みると、どうしても自分を責めずになどいられない。それでも、綺麗で賢く、強かな姉も、確かに弱者であったのだ。
「……それでも、好き…っ。好き…なんです…」
どれだけの人を傷付けていようと。どれだけの人が、姉を憎んでいるとしても。
私の中には、今も綺麗で優しい姉の姿が色鮮やかに残っている。
あの時、あの瞬間、離れていく姉の背中を追えたならば、どれだけ良かっただろう。彼女と共にあるならば闇に堕ちるのも悪くはないと、そう思えるくらいには、私も愚かで短絡的だ。―――だけど、それが出来ない理由がある。それを許さない人が居る。
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