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□今だけは
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風呂からあがって一番に目にした光景にユキノは小さく肩を落とした。

一人がけのソファー、ゆったりと体を沈めて微睡む彼の姿に、もうっと心中で悪態をつく。濡れたまま寝ちゃうなんて、それよりもタオルで拭くとか、私がお風呂に入っている間に出来る事もあっただろうに。

肘掛けに投げ出された手には、ゆるく握られた酒瓶。これを飲んで、眠ってしまったのか。今にも落ちそうな酒瓶を、彼の手からそっと奪う。

「ほんとに風邪、ひいちゃいますよ」

殆ど乾いてしまった金の髪を撫でる。癖の強いブロンドはすっかりいつもの形を取り戻していた。

「スティング様」

瞼を縁取る睫まで、金色。いつまでも起きない彼に、そんな事まで気が付いてしまって、ドキドキ心臓が跳ねる。

「スティング様ってば」

バカになりそうなくらい。ドキドキ、ドキドキ。鼓動がうるさい。こんな気持ちになるのも、レクター様が居ないから。どうして、今日に限って二人っきりの仕事に出てしまったのだろう。どうして、今日に限って雨なんか…。どうして、同じ部屋で…。

そんなの、そんな理由、分かりきっているのに。

「スティング…、様」

緊張に身を震わせながら、こめかみに一つ、口付け。出会った頃からそこにある傷口の引きつった感触を唇に感じて、キュッと心臓が縮んだ。

瞼、鼻先、頬。いつも彼がそうしてくれるように、一つずつ、キスを贈る。拙い、今の自分に出来る、精一杯の愛情表現。

好き。好きです。大好き。―――まだ、もう少しだけ、目覚めないで。そう思う一方で、彼の目が開くのを今か今かと待ちわびている。起きて、抱き締めて、たくさんたくさん愛してほしい。でも、あとほんの少しでいいから…今だけ。

「っ……」

呼吸が、止まるかと思った。唇と唇を重ね合わせるだけの行為。それだけの、はずなのに。

自分からすることが、こんなにも違って感じるなんて。

静かに身を離そうとして、強い力に引き戻される。息を飲む間もなく、再び柔らかな感触が唇に触れた。

「まっ…、ン…む」

肘掛けに手をついて、なんとか彼の胸に飛び込むことは避けたけれども、私の腕を掴む彼の力が緩むことはない。不安定な姿勢から体を起こすことも出来ず、彼の口付けを大人しく受けるばかりだ。

「はっ、あ…」

唇から零れる熱い吐息は、自分か、果たして彼のものなのか。何度も、何度も、繰り返される甘い応酬。喰らい尽くされるのではないかと錯覚してしまいそうな程の…。

啄むような口付けから一転、舌先がユキノの唇を割って口内に侵入してくる。

(う…わ……っ)

舌と舌が絡み合って、それだけで身体中に快感がゾクゾクと這い上がる。

「待っ……っ、うン、…や」

待って。本当に待って。わけの分からない焦燥感に逃げ場を求めてもがいた。これから起こることへの期待と不安。どちらも持ち合わせているのに、いざそれを目の前にすると怖じ気づいてしまう。

「あ……」
「っと」

弛緩した身体は呆気なく彼の腕に受け止められる。荒くなった息を整える間もなく、ユキノは彼を睨んだ。潤んだ瞳や紅潮した頬は、迫力の「は」の字もスティングに与えることはなかったけれど。

「い、いつから起きてたんですか」

問題はもうそれだけでは済まないが。

問われた彼は少しだけ困ったように首を傾げた後、曖昧に微笑んだ。それが何を意味するかなど、今のユキノには手にとるように分かる。

「……意地が悪いです。起きてるなら、言ってくれたら良かったのに…」
「そう怒るなよ」
「おこっ…、怒ってなんて、ない、ですけど…」
「んー?」
「でも、でも、狡いです。起きてたって分かってたら…」

あんな、あんなキス、しなかった。出来なかったもの。それが良かったのか、悪かったのか、判断に迷って結局の所もごもごと口ごもる。気付いてなんてほしくなくて、でも本当は知ってほしかった。一番狡いのは、きっと私。

「悪かったって。らしくない事をしてくれるもんだからさ、起き辛かったんだ」
「……らしくないって、思いますか?」

途端に不安げになるもんだから、スティングは堪らず彼女の体を抱き締めた。分かってないな、なんて心の中で毒吐いて。

「嬉しかったんだよ。ユキノからなんて、滅多にあることじゃねーからな」
「…こんなこと、滅多に出来るものでもないです」

眠っている時でさえ(狸寝入りだったわけだが)おかしくなりそうな程ドキドキしたというのに。

「なんで。してくれりゃーいいじゃん」
「スティング様はそうやって簡単に言いますけど…」
「難しいのか?」
「……っ…」

不思議そうに瞬く蒼の瞳が、最早憎らしくさえ映る。

「じゃあ、オレからするけど」

いーの?と暗に問われ、ユキノは真っ赤に染まった頬を隠そうともせずグイグイと彼の肩を押した。

「お、お風呂!先にお風呂にどうぞ!」
「先に?」

振り切れそうな程、首を縦に振る。とりあえずこの場を脱したくて言った言葉ではあるが、一体これでどれだけ保つだろう。彼があがる頃には、果たして心の準備は出来ているのだろうか。

「じゃあ後で?」
「っ……」

そういう意味で言ったのでは断じてない。が、つまりはそういう事なのだと気付いてしまって、ユキノは返す言葉をなくす。お願いだから、これ以上私の心を振り回さないでほしい。

「でも悪いな。オレは“今”がいい」

反論の余地もなく、再び唇が塞がれる。声も吐息も抵抗の意志さえも彼の唇に飲まれて。今すぐ逃げ出してしまいたい程恥ずかしいのに、まるでそうなる事が自然のようにユキノの腕がスティングの首に絡む。もっと、もっと。知らず心が彼を求めている。

裾から侵入したスティングの手が直に肌に触れる。指先が肌を伝う度、得体の知れない感覚がユキノを襲った。身体の芯が疼いて、もう何も考えられない。

「スティ、グ…さま」
「うん?」

水底のような蒼の瞳が、今だけは炎のようにゆらゆらと揺らめいている。熱に浮かされて、のぼせ上がる。彼も、私も。お互いに。

「スティングさま、すてぃ…ン」

譫言のように、何度も、何度も繰り返して。

「ユキノ」

彼の唇から零れる自分の名前が嬉しい。ジワリと目頭が熱くなって、目の前がぼやけて見えた。それさえも何故だか勿体無く感じて、ユキノは目の前の彼にのみ焦点を合わせる。ホントは目を瞑ってしまいたいくらい恥ずかしいけれど。

「スティング様…」
「だから何だよ」

余裕を無くした彼の声が愛おしい。揺れる瞳に映るのは、私だけ。

「名前、呼んでください。たくさん」
「…ユキノ?」
「たくさん。たくさんです」

今だけ。今だけだもの。今だけ、彼は私のものだから。

「ユキノ」

その名が、何よりも尊い愛の言葉に聞こえた。



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