銘々の明晰夢
□1.わだつみに別たれ
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────ユノ! 逃げろ!!
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
沢山のことが、ほんの数秒のうちに起きた。
笑う仲間たち、陰る太陽、迫り来る津波、吹き飛ばされる橋や家や、人。
誰もそれに抗うことなど出来なかった、波に呑まれた人は皆成すすべなく海へと流された。
自分もそのうちの1人だった。
けれど自分は生かされた、仲間たちの命と引き換えに。
「おいあんた、大丈夫か!?」
見知らぬ男が上から心配そうに声をかけてくる。
水に塗れた顔を上げて辺りを見回すと、そこは先ほどまでいた場所とは別の地だった。
「いくら祭りだからって、海に飛び込むなんざやめとけよ」
引き上げるその力に従って土でも木でもない硬い地面に膝をつく。
前を見ても左右を見ても、どこもかしこも人、人、人。あちこちに設置されたスピーカーからは司会者の声が響いている。
《ここで前半終了です! いやーゴワーズ強い!まったくもって強い!》
「いよっ、さすがゴワーズ!」
「オーラカが相手じゃ張り合いもねーなぁ」
道行く人が指笛を鳴らして画面に映るブリッツの選手に声援を送った。
どうやら津波で別の街まで流されてしまったらしい。
水を吸った服や髪を絞って立ち上がり、自分を助けてくれた男に頭を下げて、ふらふらと街の中心へ歩いた。
「そんなナリで中入ってったら怒られるぞ! おーい、聞こえてるかー!?」
その言葉の通り、ブリッツの受付嬢が水浸しのこちらを見て門前払いする。
仕方なく素直に引き返して適当な場所に腰を下ろし空を仰いだ。
太陽が眩しい。澄んだ青空が、同じ色をした自分の瞳に映る。
何も考えられずにしばらくそのまま空を眺めていたが、前を通り過ぎていった青年がこちらに気付いて戻ってきた。
「なにしてんの? っていうか、大丈夫ッスか?」
その顔は、さっきまでモニターに写されていたものと同じだった。
相手は使っていたブリッツ公式ロゴが入ったタオルを自分に渡す。
「ブリッツの選手には見えないけど、水浴びでもした?」
「…………」
「……もしかして喋れない、とか?」
《ああっと!? ワッカ選手です!! 元気に復帰してきました!!》
「盛り上がってんなー。あ、俺あそこのチームなんスよ、応援よろしくッス」
風邪ひくからさっさと着替えたほうがいいよと言って、青年はスタジアムへと駆けていった。
その後姿から渡されたタオルに視線を落として、ゴシゴシと顔を拭う。
これから、いままで。
どちらにも行けない思考が、考えることをやめて停止する。
スピーカーから聞こえるアナウンサーの興奮した声も、周囲の歓声も、すぐ近くにあるもののはずなのに、とても遠くに感じた。
通行人の何人かと目が合ったところで、自分が注目を浴びていることに気がつく。
別の場所を探そうと腰を上げると、明らかにガラの悪そうな数人の男に囲まれた。
「さっきからボーッとしてるけど、何かあった?」
「俺らが慰めてやろうか?」
「ちょっとこっちおいでよ」
相手の考えていることはなんとなく分かったが、今の自分には抵抗も拒絶も逃避も浮かばなかった。
まるで体から魂が抜けているみたいに、引かれるままにスタジアムから遠ざかっていく。
すると道の反対側から、突然人の群れが逆行してきた。
男達もそれに気付いて足を止める。何かから逃げるかのように血相を変えて走ってくるそれらに只事ではないと察して、一帯に緊張が走った。
「おい、あれ……!」
「まっ、魔物だぁ!!」
道の先に蠢くそれを見つけて、誰かが叫んだ。
それを皮切りに、状況を理解した者達が一斉に走り出す。平穏だった街は一瞬で恐怖に包まれた。
逃げ惑う人々の中で、ユノは逃げるでも立ち向かうでもなく、呆然と立ち尽くしていた。
目に映るのはゆっくりと、着実にこちらに近づいてくる魔物。
恐い。そう感じてはいた。足が逃げようと一歩後ろに下がるが、それ以上は動かなかった。金縛りに遭ったかのように、その場に体が固定される。
もしかしたら無意識のうちに、自分を死へと向かわせてようとしていたのかもしれない。
けれどもそのときは、恐怖と体が動かせないという事実しか理解することはできなかった。
魔物が獲物を見つけてにじり寄ってくる。
その獲物は勿論自分だ。
怪しげな光をたたえる瞳がこちらを射抜く。
逃げなければ死ぬ、でも逃げられない。数時間前の記憶が強制的に思い出される。
絶対的な死の象徴。
手に握る杖は物語る。立ち向かえ、それが己の使命だと。
「キーラ……リリー……」
もう居ない仲間達の名前が口から零れる。
呼んでももう彼らは来てくれない、護ってくれない。
1人では無理だ、1人では、とても。
こんな恐怖に立ち向かうなんて、とても。
「…………っ」
一際大きな魔物が、自分を見つけて走ってきた。
未だ動かぬ体に頬を熱い雫が伝う。
ここで死ぬなら、どうしてさっき死なせてくれなかったんだと神を恨んだ。
魔物が吼える。抗えない運命に、滲む視界を消した。
目蓋を閉じて、唇をきつく結ぶ。
走馬灯なんてものは流れなかった。
真っ黒な視界と真っ白な頭に届いたのはたった一つ。
「────退け」
低く強い、男の声。
目を開けると、視界は血ではない赤に染まっていた。
「……死にたくなければ、下がっていろ」
身の丈ほどの巨大な剣をかつぐ手と逆の手で軽く肩を押され、ようやく体が一歩以上動く。
男は低く唸る魔物に脅えるどころか薄く笑って、腰を低くして剣を構えた。
数秒間、魔物と男の間に沈黙が流れ、2つは同時に動いた。
男の剣が魔物を裂いて、魔物の悲鳴と巨体が倒れる振動で起こった地鳴りが鼓膜を揺らした。
静かになった橋の上で男は腰を抜かしているこちらに向く。
あまりにも桁外れなその光景に言うべきことが何も浮かばず目をしばたかせていると、後方からさっきの青年がやって来た。
その隣にはもう1人、彼と同じくモニターに映っていたブリッツの選手が居る。
「あ、あんたさっきの!」
「知り合いか」
「知り合いっていうか……、つーか、何だよこれ!?」
周囲にまた新たな魔物が現れ、3人はそれぞれ武器を構えた。
自分だけが1人立ち上がることもできずに、その戦いを眺めていた。