SS・文
□掴み損ねた砂
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砂はどこにでもある。
すくいたければ、どれだけでもすくえた。
しかし、指の間のほんの小さな隙間から、あっけなく消えてしまう。
砂漠の街の昼は暑い。
正午になると皆は仕事の手を休めている。
その人々の間を縫うように井戸へ向かう、一人の少女がいる。紅い紐で一つに結わえた長い艶やかな髪を揺らしながら歩いて行く。毎日この時間に水を汲みに行くのが彼女の仕事の一つだった。
この仕事を任されている者は多く、特別なことではない。
なので誰も気に留めない。が、一人だけは、小さな木の下に座り込んでいる休んでいる少年だけは、その紅い紐の少女を目で追っている。
「なんだ、また視てんのかよ」
少年よりも少し年上の黒肌の少年がからかいの含んだ口調で話しかけてきた。
「…いや」
返答は至ってシンプルだが、表情が当たっていることを物語っている。
「へぇ?そうかい?そうには見えないけど?」
「うるさい。ほっとけよ」
尚も絡んでくる黒肌の少年をなんとか追い払い、大きく息を吐き出してまた少女に目を向ける。ただ気になるだけだ。また転ばないか、誰かに当たらないか、と。
現に水を汲んだ少女の足取りは頼りなく、危なっかしいものだった。時々頭を下げつつすれ違ってもいる。
少年と少女の出会いもそうしたものだった。…いや、出会いという程のものでもなかったし、そもそも少女はとっくに忘れてしまっているかもしれない。ほんの一回、一回だけぶつかっただけなのだから。
それでも少年ははっきりと覚えていた。汲み直さなくてはならなくなったにも関わらず、少年を気遣ってくれた言葉と笑顔を。それは正午の太陽よりも眩しくて、そして優しかった。
またあの笑顔が見たい。言葉を交わしたい。そういえば、あの時、満足に謝っていない。その為にも声をかけたい。だが彼女は忙しいのだ。どこかの屋敷に下働きをしていたと記憶している。遅れたらきっと主人に叱られるに違いない。
そんなことをぐるぐる考えているので、少年は声すらもかけられずに見ているだけだった。
でも、いつかは…。いつもあそこを通っているのだ。チャンスはいつでも、いくらでもあるのだ。焦ってはいけない。
しかし、いつからか少女は姿を見せなくなった。
最初は体調が優れないからと思っていた。
明日は来るだろう。明日の同じ場所で同じ時間で待っていればそのうちに来るだろう。数日見なかっただけでこんなにも落ち着かない。次来たら絶対に話しかてやる。明日だ、きっと明日だ……。
少女がどこか遠くへ連れて行かれたという噂を聞いたのは、それから5日程経ってからだった。
主人の親戚が少女を気に入ったらしく、妾として売られていったらしい。
いつも明るい黒肌の少年がそう無表情に伝えてきた。気にしつつも一向に動かない少年に業を煮やして、情報を仕入れてきてくれたのだった。
何故、いるときに話しかけなかったのだろうか。
いや、話しかけたところで、今の状態が変わる事はないだろう。結局少女は売られて行くのだ。それを止める事もできず、一緒に逃げる事もできなかっただろう。話しかけなくてよかった。仲良くならなくてよかった。それでは別れが余計に辛くなるだけだ。
しかしこの痛みは、圧迫感はなんだろう。傷つく前でよかったのだ。良いはずなのに次第に溢れてくる涙、そして後悔の念。
何故あの時動かなかったのだ。
そう、動かなかった。チャンスはいつでもあると思っていたから。しかしチャンスなんてものはいつも在るものではない。在ってもタイミングよく掴まなければ逃げていってしまうものではなかったか。
そういうことなのだ。ただ自分に意気地がなかったのだ。色々と言い訳を並べて、自分の弱さを隠そうとしていた。
今、そのことに気付いても、もう遅い。逃げて行ったものを再び掴む事は不可能にちかい。
いつまでも少年は俯いていた。自分の弱さに絶望して、もう浮上することはないのでは、と思う程に。しかし、ふっと顔を上げるように、ふっとあの笑顔が脳裏に浮かんだ。
あぁ、あの笑顔は今でも太陽のように眩しくて、優しい。
砂はどこにでもある。
すくいたければ、どれだけでもすくえた。
しかし、指の間のほんの小さな隙間から、あっけなく消えてしまう。それでも、その手には極僅かではあるが、必ず砂が残る。