<短編−弐−>
□掌ーたなごころー
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『掌ーたなごころー』
やめて、やめて、ぼくにさわらないで。さわったらだめ。
止めろ、気安く触るな。
俺に触れてくれるな。頼むから!
もう、誰も傷つけたくないんだよっ!!
「あっ・・・ぁぁ・・・。」
己でも分かるほどに大きく震える身体。今思い出せば、なんと忌々しく滑稽であったか。爪には、恋い慕う人の血の匂いが、目に見えない量であっても敏感な嗅覚が、その存在を否が応にも知らしめる。
「犬夜叉・・・。」
「は、母上・・・。」
幼子の母親は痛みによる苦痛を見せまいとし、母は大丈夫ですよ、と小さく笑う。しかし、母親の頬には、ほんのりと色づく頬の赤みとは違う一筋の紅い線。原因は、俗に言う幼子の癇癪によるもの。己の思い通りにならないことで、嫌々と振り回した手が母の頬を掠め爪で引っ掻いた。態とでは無いとは言え、子ども心でも美しいと思う母の顔を、 いや、此の世で最も愛する母親を傷付けたことに、幼子の心は大きく揺さぶられ、切り裂かれた。
「あ、ぁぁ・・・・。は、はう・・・え。」
「犬夜叉、母は大丈夫ですよ。気にしないで。」
ですから、こっちにいらっしゃい、と幼子に手を伸ばす母を涙目で見、幼子は首を大きく振った。拍子に頬に伝う涙が、ひとつふたつと床に落ちた。だめ、だめと嗚咽混じりに言いながら後ろに後じさり、ばっと踵を返した。
「犬夜叉っ?!どこに行くのですっ!!お待ちなさいっ!!犬夜叉っ!!」
几帳を跳ね退け、御簾を翻して飛び出した吾子を呼び戻さんと、息子の名を母は懸命に呼ぶ。しかし、幼子は母の呼び掛けに応じることなく、魑魅魍魎が徘徊し跋扈する宵闇へと飛び出して行った。
人の世界から妖の世界へと姿を変えた森を、幼子は涙を拭わずに走る。無茶苦茶に腕を振り回し、闇雲に行く宛も無くひた走る。非力な子どもが森の中を走っているというのに、妖怪と遭遇しなかった。幼子は、半妖とは言え今は亡き西国の大妖の王の御落胤(ごらくいん)である。その御子を手にかけるなど畏れ多いというゆえか、はたまたそれ以外の理由なのか、妖怪たちは息を潜め、姿を見せなかった。幼子は母を傷付けた恐怖感のみを抱えて、ただひたすらに走った。
どうして、どうして、どうしてっ!!
どうしてこの手は、こうも容易く人を傷付けてしまうっ?!
どうしよう、母上を傷付けてしまった。
きらいだ、きらいだ、こんな手、大キライだっ!
幼子はゆるりゆるりと立ち止まり、肩で大きく息をしながら、まだ血の匂いのするそれへと視線を落とした。
人とは違う、長く鋭い爪。
木肌を引っ掻き、地面を殴りつけても爪は折れることも欠けることもなく、傷付いた皮膚は直ぐ様幼児特有の柔らかい肉へと再生する。この手が、爪が、疎ましかった。おぞましかった。
「あ、あ・・・。ゔ、あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁぁーーーっ!!!」
幼子の心には有り余る、抱えきれない大きな苦しみは、獣の凄まじい咆哮に形を変えて、夜の森をじわじわと揺るがしていった。
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「俺に触るなっ!!」
夜半、脂汗を額に滲ませて酷く魘されている犬夜叉に気付いたかごめはハッと飛び起きて、なんとか犬夜叉を覚醒させた。夫に触れようと手を伸ばした時、突如として投げ掛けられた言葉に暫し唖然とした。背を向けられ、触れられなかった手は、虚しくも宙をさ迷い、彼女の膝へと落ちていった。
「ねぇ、犬夜叉。どうしたの?なにか、悪い夢でも見たの?」
「・・・・。」
かごめに問い掛けられても、犬夜叉は背を向けたまま、ひとつも応えない。夫の突然の冷めた態度に、かごめは心配すると同時に、寂しいような、いたたまれないような気持ちを抱える。それでも、常にない犬夜叉の行動を心配し、めげずに彼の肩に触れる。犬夜叉の身体が大きく震えた。
「・・・頼むから、触るな。」
「犬夜叉・・・。」
「・・・・。」
「・・・・まだ、真夜中だからもう少し寝よっか。ほら、これもちゃんと羽織らないと、風邪ひくよ?」
もの言わぬ犬夜叉の肩に、掛布代わりの羽織をかけた。溜め息を表には出さず、心の裡だけに留める。犬夜叉が何に魘され、如何な理由で己を拒絶したのか。夫を愛し案ずる妻として、それは知りたいと思うが、それを犬夜叉が頑なに拒み言いたくないのであらば、無理に聞くこと必要もないだろう。けれど、このまま放っても置けなかった。触れること拒絶するならば、言葉で犬夜叉に触れればいい。かごめは、背を向けたままの犬夜叉に話し掛けた。飛び起きた時につけた灯台は、そのままにしておく。
「犬夜叉、明日は妖怪退治の依頼は、入ってないって言ってたわよね。村の人から聞いたんだけど、山では梅が、今見頃なんだって。一緒に見に行こうよ。犬夜叉が、京の仕事で貰った良いお茶を持って言って、梅の花弁をお茶に浮かべるのもいいわよね。」
隙間風に煽られて、灯台の火が時折ゆらゆらと左右に傾いだ。かごめは、にこにこと笑いながら当たり障りの無い話をした。暗闇にも等しいその空間に、一点のみの明かりでは、ようよう犬夜叉の表情を窺い知ることは甚だ難しい。彼女の話を、聞いているのか聞いていないのかさえもわからない。その時、小さな衣擦れの音がしたと思えば、犬夜叉が褥に横たわった。顔をこちらに向けて。そして、大きく深呼吸すると、ポツポツと話し出した。
「・・・ガキの頃、この爪で・・・・、おふくろを傷付けたことがあった。」
「犬夜叉、無理しなくても・・・。」
「いい、聞いてくれ。・・・・・おふくろは、大丈夫だからって笑っていたけとな。態とではないにしろ、おふくろを傷付けてしまったこの爪が、ガキの頃は大嫌いだった。傷付けるしかないこの手が。」
「・・・・。」
かごめの表情が、くしゃりと歪む。辛く、悲しそうに話続ける犬夜叉の話を、かごめは黙って聞き続けた。
「夢で、繰り返しおふくろを傷付けているんだ。この手をどうにかしたくても出来ない。夢で見たことが、現実、過去にも起こっているだろ・・・だから・・・。」
「・・・だから、あたしを拒んだの?傷付けたくなくて。」
「今更ながらな。」
笑うだろ、と犬夜叉が苦笑する。顔は小さく笑っていても、灯台の光に照らされる金色の双眸は、翳りがさしていて暗い。
「犬夜叉、大丈夫よ。怖がらないで。その爪も手も、これまでに何人ものの人を助けたわ。あたしだって、何度となく助けられた。」
「だが、多くの人間を狩った。お前のことも、傷付けた。」
犬夜叉の言葉に、かごめは小さく首を振った。そして、懐に納められていた犬夜叉の手を探り当て、握り締めた。犬夜叉が手を引っ込めようとするが、かごめはぎゅっと握り締めて離さなかった。
「犬夜叉がそう言っても、あたしはこの手が大好きよ。前も今も、あたしを助けてくれる。抱き締めてくれている時は、本当に嬉しい。髪を触ってくれるのも大好きよ。・・・・確かに、過去は消せないし戻せない。だったら、その分、誰かをその手で救うのよ。都合の良い罪滅ぼしだと言われてもね。それでも、それで救われる人は、これからだって大勢いる。妖怪退治は・・・、今、犬夜叉がやっていることはそういうことにならない?」
「そう、なのか?」
「きっと、そういうことなのよ。」
「でも、な・・・。」
覚醒してから、かごめに触れることを拒絶していた犬夜叉が、恐る恐るといった風に、彼女の腕に触れた。細い右の二の腕を擦り、そしてそこを包むように、手を置く。
「ここ、傷痕が残ってるだろうが。」
奈落の邪気に負け、妖怪化した際に、彼女につけた傷。傷は思ったよりも深く、尚且つ傷付いたままの腕で鉄砕牙にぶら下がったことで、さらに悪化してしまった。傷が塞がった今も、そこだけは新しい肉芽が形成されたことを示す、雪白の中に薄紅色の肌。以前、情事の時に、犬夜叉が見つけてしまった。
「これは、犬夜叉のせいじゃないって何度も言ってるのに。気にしないでよ。」
「お前の身体を傷付けて、平気なわけねぇだろ。」
「あたしは、全く気にしてないわよ。」
「・・・それはそれで、問題大アリだろ。」
「なによぉー。」
かごめが、ぷぅと頬を膨らませた。それに犬夜叉は苦笑して、かごめの頬を指の腹で突つき、そして包み込んだ。かごめは犬夜叉の手に頬擦りをする。
「ん。やっぱり犬夜叉の手、大好き。大きく温かくて。幸せになれちゃう。」
「そんな御大層なもんでもあるまいに。」
「そんな御大層なものなのよ。・・・・・もう、怖くない?」
「・・・そうだな。」
「ふふ、良かった。」
そう言って、かごめはまるで仔猫が甘えるように犬夜叉の胸許に入り込んだ。可愛らしい妻の行動にクスリと笑って、かごめの髪を長い爪のある手でゆっくりと丁寧にくしけずる。先程まで恐怖が、嘘みたく霧散していく。この手で、触れれば触れるほどに、心が凪いでいく。またも、彼女に救われた。
「明日・・・。」
「え?」
かごめが犬夜叉を見上げた。
「梅を一緒に見に行くか。誰にも知られてねえ、取って置きの場所があるからよ。連れていってやる。」
「やったぁ。楽しみにしてるわね。」
「あぁ。さぁ、もう寝るぞ。」
フッと犬夜叉が灯台の灯火を吹き消した。一気に暗がりに戻る。暗闇に押し潰されそうで、かごめは一層のこと、犬夜叉の懐に潜り込んだ。
「ね、犬夜叉。」
「ん?」
「手、繋いで?」
犬夜叉は右腕でかごめを抱き締めると、左の掌はかごめの指に絡ませた。うとうとと、また微睡む。
心配して犬夜叉を探しに来た母が、涙ながらに強く吾子を抱き締めた。小さな両の手を包み込んで、決して離すまいと握り締める温かく優しい母の掌。それが、今は、いつも触れられる。
そんな夢の続き。
fin
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