けいおん! 放課後の仲間たち
□プロローグ
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桜舞う季節。花冷えると言われるこの時期の清々しさ、それに騒がしさを密かに孕んだ朝の静寂な空気。
それらを胸いっぱいに吸い込んで歩く一人の少年がいた。
鮮やかな桜並木の下を黙々と歩く少年は、自分を取り巻く世界の有り様など気にかける様子もなく、自分の爪先に向けて視線を落としている。
彼とすれ違う人々は好奇の目を向けて、中には首を傾げる者もいた。
大通りに出た少年はそこで顔を上げる。
西洋的な彫りの深い、端整な顔が現れた。
陶器のように白い肌は職人が磨き上げたような滑らかさが光る。
とろんと眠たげに半開きの目をこすり、日の光を反射するアスファルトに力無くうなだれる。
しかし、相当眠そうである。
欠伸を噛み殺しながら、再び広い歩道をふらふらと歩き続ける。
同じ学校のものと思しき制服を着た少女たちを次々に追い越していくと、多くの人間が彼に視線を奪われて、はぁと吐息を洩らした。
「今の人、見た?」
「見た。留学生とかかな」
そんな会話が端々でなされている事など知らず、いまだ彼は歩みを止めない。
目的地へ向かうまでに彼が周りを気にかけるそぶりは一切見られない。
それからしばらく歩き、やがて彼は目的の場所へと辿り着いた。
『桜が丘高等学校』
真新しい看板にはそう書かれている。
東京に隣り合う郊外と呼ばれる地域に門戸を構える由緒正しき私立の高校である。
ぱりっとノリがきいた制服を着た生徒たちが、チラホラと広く構えられた校門を通り抜けていく。
校門の前に佇む少年の顔は憂いを帯びていた。
さらりとこぼれる髪を一房さらい、これから自分が足を踏み入れる校舎を見渡した。
半開きだった瞳を徐々に押し広げる。
青空と同じ色をした瞳に目の前の光景を映し出すと、彼はきゅっと眉を寄せた。
「ヤンキーがいませんように」
手を組み、ありったけの祈りをこめた少年はしばらく天を仰いだ。
「オラ、返せよコラ!」
急に間近で起こったドスのきいた声に少年はびくりと肩を跳ね上げた。
身を縮めて、辺りを窺うとどうやら友人同士らしい他校の男子生徒が戯れていただけであった。
近くに他の高校はないはずであったが、まだ登校時間には十分に余裕がある。これから駅にでも向かうのかもしれない。
ほっと胸を撫で下ろすと、彼はそそくさと校舎の方へと足を踏み入れていった。
まだトクトクと動揺した心臓の鼓動が収まってくれない。
校内へ入るとふわりと花の匂いがした。そこらの花壇に植えてある花が鮮やかに揺れている。
これは季節によっては見応えがある景色になるだろうな、と嬉しくなった。
少年はこうした自然の美しいものへに対する憧れと尊敬を持っていた。手入れの行き届いた校内の花々を眺めるうちに、少しだけこの学校のことを好きになれそうだと思った。
少しだけ気持ちが楽になり、自然と少年の顔に笑顔が浮かぶ。
しかし、その笑顔も玄関に入った時にはたと消え去った。
目の前の光景に立ち竦む。この光景はかつて見慣れたものであった。
やはりどの学校でも玄関の造りは大して変わらない。
過去の出来事がフラッシュバックして、少年の足が震え出す。
逃げてはいけない。
ここまで来たのだ。
少年は震える足を何とか動かし、玄関先に張り出された案内を確認して、自分の名前を見つけ出した。
『立花夏音』
クラスは二組。
ここに名前があること。それはこの学校には既にこれから三年の間、自分を受け入れる準備を終えていることを示していた。
心の準備が整っていないのは自分の方である。
少年――立花夏音――はふっと短く息を吐くと、意を決して校舎に足を踏み入れたのであった。