けいおん! 放課後の仲間たち
□第一話
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アメリカの土を最後に踏んだのはいつだったかと思い返す。
夏音が日本にやって来てから既に一年以上が経過している。随分と遠い国に来たものである。
人生の九割以上を過ごした場所から遙か遠くに位置する小さな島国。
些細な事からその生活に不安を感じることもある。
習慣、文化間のギャップ。人によっては異国間の些細な違いが時には多大なストレスになることもあるという。
しかし、彼にとっては些末ごとに過ぎない。
そんなことはどうでもいいのだ。
彼が日本で暮らす中で目下のところ悩ましい事と言えば、こちらの時差を考えずに電話を入れてくるエージェントに他ならない。
あまりにしつこいので辟易としてしまい、電話がかかる度に殺意が芽生える。
昔はよく寝る子は育つなどと言って夜遅くまで相手してくれなかったのに、今では安眠妨害装置である。
悩みといえば、他にも幾つか重大な悩みを抱えていた。
ある日、珍しく全員がそろった夕食の席での事だ。
「夏音もまた新たな生活に乗り出したことだし。ヴァケーションは終わりだ」
ヴァケーションという季節でもなかったが。
夏音は二人が自分の学校が始まるのを見届けるために仕事を入れていなかったことを知っていた。
から揚げを頬張っていた夏音の父、譲二がふと真剣な表情で箸を置いてそう切り出すと、母のアルヴィがにこやかにこう添えた。
「うふふーママもパパについていくのよー」
夫大好き人間の母のことだ。
「うん、わかった。俺は心配ないから、行ってきて」
夏音は別に両親がいつ出て行くこと事態が死活問題というわけではないので、冷静に切り返した。
そもそも、日本に来てから家族で一緒に過ごした時間は一般家庭のそれと比べておそろしいほど少ないだろう。
もともと仕事の関係上、一般の家庭比べて家族団らんの時間は限られてくる。
家族の暗黙の了解なので、二人にとってもこれはただの報告でしかないのだ。
夏音に流れる血の本家大本の両親が音楽無しに生きていけるはずがない。自分にも言えることだが。
彼らは趣味の域などでおさまるような類の人間ではない。趣味の範囲で出会えるような人々では満足たり得ないのだ。
あのステージに。限られた者がのぼることのできるあのステージにいなくてはならない。
だから、ここで彼らを引き留めるという行為ほど無駄なことはないのだ。
やはり、自分にも言えることなのだが。
しかし、どれだけ理由を重ねても寂しさがまぎれることはない。慣れたと言っても、やはり一人は寂しい。
それを押し殺して夏音は気にした素振りを隠す。
「お土産を期待してるよ」
「おお。ぶっ飛んだものを持ってきてやるさ」
翌朝、夫婦は文字通り飛び立っていった。
「行ってくらあ!!!」
「風邪ひかないようにね。コーラは飲み過ぎないようにね! 薬の場所もわかるわね? 電話するから電話線を抜いておかないのよ!」
よく晴れた爽やかな早朝に、いつもエネルギー全開の両親の声が閑静な住宅街に響いた。
寝ぼけ眼のまま、手を振って見送る夏音。
「アーーチュ!!」
くしゃみをしても一人。
何よりも問題は二つ目だったりする。
友達ができない。
夏音は人間、第一印象が大事なのだということを誰よりも深く肝に銘じていたはずだった。
過去の痛い経験も新しい未来へ進むための定石となれば良い。
頑張って、友達をつくるぞ。
そんな決意を新たに踏み入れた高校生活。
入学式の自己紹介を終えて以降、日本語があまり話せない帰国子女という位置に落ち着いてしまった夏音は、クラスでも浮いた存在になってしまった。
これは孤立ともいう。
「俺って奴は……また、やっちゃったのか」
悔やんでも悔やみきれない。
クラスメートはこちらが挨拶をすれば、しっかり同じように返してくれる。
最初の方は好奇心もあってか、数人で夏音を取り囲むこともあった。
英語で話しかけてくることをのぞけば、大歓迎だった。
しかし、彼らは辿々しい英語を駆使して自分を会話を試みて、途中で悔しそうに出しかけた言葉を回収せずに去っていくのであった。
すごくバツの悪そうな表情を見る度、夏音の方こそ罪悪感でいっぱいだった。
もちろん中には非常に気立てがよく、いわゆるノリがよい者もいてむちゃくちゃな英単語の羅列を駆使して会話を成り立たせてくれる猛者もいた。
ここで夏音がさらっと流暢な日本語を喋り出してもノリで許してくれそうな気もする。試す勇気はない。
大方の教師陣は授業中に夏音を指名するのを避けているようなのだ。
「あ、その問題わかるぞ」と夏音の瞳がきらりと光っても、存在を無視される。
揃いも揃ってそれが暗黙の了解のように。