小説

□変わらない想い
1ページ/2ページ


 産声が上がった。
「おめでとう、立派な男の子だよ!」
「ああ……ありがとう。りん」
 村の娘が幸せそうに我が子を胸に抱く様を見たりんは、自然と笑顔になった。
 生命力あふれる産声は質素な家の中を暖めてくれる。産婆をつとめた楓も赤ん坊を撫でながら、頬をほころばせていた。



 畦道を楓と手を繋いで二人並んで歩く。
 二つの影は地面に色濃く映っていた。
 もう子供じゃないんだから手を繋がなくても大丈夫だよ、と抗議しようかとも思ったが、弱々しく今にも折れてしまいそうな楓の手に触れていると何も言えなくなる。
 りんはあかね色に燃える地平を見やり、ほうと息を吐いた。
 人里で暮らし始めて早七年の月日が過ぎた。
 季節が巡るごとに、大地と同じく誰もが変わっていく。
 いつの間にかりんも、十五歳になっていた。
 成長し、衰え、芽吹き。
「元気な赤ちゃん、無事生まれて良かったねえ」
「そうだな。りんも随分手慣れてきたからのう。助かった」
「本当? 良かった……あたし、楓さまのお役に立ててる?」
「もちろん」
「へへっ」
 嬉しさを抑えきれず、楓の手を握っている右手をぶんぶんと振る。
 楓は目を細めた。
「……お主もそろそろ……どうなんじゃ?」
「何が?」
 いきなりの問いかけを受けたりんは、きょとんとした表情で楓を見る。楓は深い皺を刻んだ顔を緩ませる。
「年頃なのじゃから、恋の一つや二つ、しておろう」
 恋、とりんは反芻する。
 柔らかな風が頬をくすぐった。それはりんの髪を煽り、吹き上げる。
 つられて空を仰げば、暮れなずむ空にうっすらと三日月が滲んでいた。
 真白く揺るぎないそれは、一月ほど姿を見せておらぬあの人を思い起こさせる。
「――……まだ、あたしには恋とかわかんないや」
「なんじゃ、つまらん」
「えーっ」
 夏虫が優しく歌う。
 と、その時。りん達の頭上を何かが掠めた。
 何事かと二人が振り返れば、夕陽を背にした一本の木の根元に、音もなく人影が降り立った。
「――――りん」
 心に響く声で、影は自分の名を呼ぶ。
 りんは楓の手をそっと離し、そちらへ足を踏み出した。



 人里で暮らし始めたことで、人間としての常識を覚えた。
 だから――。
 あの頃のように裸足で大地を蹴りや出来ないし、全てを物珍しいと思う天真爛漫な心は薄れた。
 けれど――。



 一つだけ変わらないものがある。


 ――それは――。



「殺生丸さまー! 邪見さまー!」
 爛漫の笑顔で手を振り、りんは殺生丸と邪見へと脇目も振らず駆けて行く。
「りーん! わしは先に戻っておるぞ」
「はーい!」
 りんは声を張り上げて言う楓に大きく手を振り、再び全速力で殺生丸達の方へ向かい出した。
 楓は、そっと呟く。
「もうすぐだな」
 あの娘は人里の暮らしを知った上でなお、殺生丸達といることを選ぶだろう。
 決断の時は、もうすぐそこに迫っている。
「まあ、恋慕の情がそこにあるかと問われれば、いささか疑問なところだが」
 楓は犬夜叉と同じ銀色の髪を靡かせる戦国一の大妖を振り返り、哀れに思う。
「……道のりはまだ長いかもしれぬぞ」
 聞こえはしないだろうが、同情の言葉を吐いた。
 かつて人間嫌いだった妖怪が、りんへ向ける眼差しはどこまでも優しい。
 りんがここからいなくなることへ一抹の寂しさを感じながらも、楓は腰に手を当てて歩を進めた。


「りんよ、元気にしておったか?」
「うんっ。邪見さまも殺生丸さまの邪魔してない?」
「何をぅ! 無礼な! 全く、減らず口も健在のようだなっ」
 足を踏み鳴らして人頭杖を上下に大きく動かしているさまは短気な子供が地団駄を踏んでいるようにしか見えない。
 クスクス笑うりんの頭に、大きな手が置かれる。そっと視線を上向かせれば、涼しげな金の双眸があった。遥か空の上に浮かぶ三日月に似た、玲瓏な妖。
「息災だったか」
「はいっ。殺生丸さま、今日ね……また村に子供が生まれたんだよ」
「……ほう」
 殺生丸は取り留めのない話にも相槌を打ってくれる。それが嬉しくて、りんは彼に笑顔を向けた。その後ろから、邪見が必死に飛び跳ねて、りんの頭を人頭杖で殴ってくる。
「こりゃっ。わしの話を聞け!」
「いったぁ。もう、邪見さまの寂しがり屋!」
「な、なんと。……もう良いわ。おまえのために新たな着物を持ってきてやったが、やらん」
「そんなー」
「…………邪見」
 殺生丸の声色が不穏に低まる。すっと空気が冷えた。
 邪見は脂汗をだらだらと垂れ流す。
「も、ももも申し訳ございません殺生丸さまっ! ちゃんとりんにお渡し致します! なにとぞお許しを!」
 殺生丸にへつらいながら邪見は「ほれ」とおざなりに夏草色に染めてある着物を差し出す。りんはまんじりと、涼やかな色合いをした着物を見つめる。
「きれい……」
「そりゃそうじゃ。それはのう、殺生丸さまがわざわざ西国の有名な機織りに作らせた――」
 殺生丸の足に踏まれた邪見は、ぐえ、と蛙のような声を発した。
「……ありがとう。殺生丸さま!」
「ふん」
 殺生丸は鼻で笑うと、のびている邪見を摘み上げる。踵を返そうとする彼にりんは声をかける。
「もう行っちゃうの?」
「ああ。火の国に用があってな」
「そっか……」
 俯くりんを横目見、殺生丸はりんの頬に指で触れた。冷たい指先から伝わる何かがりんの胸を熱くした。
「また、来る」
「! はいっ! いってらっしゃい、殺生丸さま!」
 弾けんばかりの明るい表情を浮かべたりんに殺生丸は刹那の微笑を送る。
「ではな」
 そう言って、気絶している邪見を片手にぶら下げて殺生丸はふわりと浮かび上がる。
「殺生丸さま!」
「なんだ」
「あたし、決めたよ」
 ハッと殺生丸の目が丸くなる。鋭い彼にはわかったのだろう。りんが何を言わんとしているのか。
 七年かけて出した答え。
 いや、ずっと決めていたこと。大人になるまでは絶対に言わないと決めていたこと。
その決断の先にどんな苦しみが待っていようとも、後悔などしない。
「火の国から戻られた時、お伝えします!」
「……わかった」
 彼は端的に言い、落ちていく夕陽の方角へ飛び去った。



 一つだけ変わらないもの。
 それは――殺生丸さまとずっと一緒にいたいと思う、この想い。




 後書きへ→
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ