小説
□わしらの日常
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それはそれは、奇妙な光景だった。
蛍の光が立ちこめる森の中。
ふと何者かの気配が動くのを感じ、わしは薄目を開けた。
するとどうじゃ。わしの目に飛び込んできたのは、燻る焚き火のすぐ脇にそびえ立つ樹木に凭れかかって眠るりんに、殺生丸さまが近づくところだった。
夏の蒸し暑さを感じさせない、涼しげな面差しをした主の指がりんの頬を滑る。そして、そのまま小娘の顔に張り付いていた一筋の髪を優しく耳にかけた。
「…………」
殺生丸さまに付き従って幾星霜。
この邪見、殺生丸さま唯一の従者であると同時に、唯一の理解者であると豪語してきた。
しかし。
込み上げてきた唾を、ゴキュリと呑み込む。
――嘘じゃろ。そんな馬鹿な。
自分の真向かいで起こっている信じられない殺生丸さまの行動に、わしは飛び上がりそうになる自身を必死に押しとどめた。
そしてそのままぎゅっと目を瞑り、寝返りを打って殺生丸さまとりんへ背を向ける。
枕代わりにしている阿吽が煩わしそうに低く唸った。
――わしは見てない、何も見てない。
自分自身にそう言い聞かせて見なかったフリを決め込む。
おー怖っ。こんなところ見たことバレたらわし、殺生丸さまに殺される……。
今までの殺生丸さまだったら決してあり得ない行動じゃ。あの方が他人へ手を差し伸べてやるなんて…………。
最近の殺生丸さまはおかしい。正確には、りんを天生牙で生き返らせた時からだ。
――もしかして、殺生丸さまってりんのことを……? ……いやいや、有り得ん。そんなこと、天地がひっくり返って殺生丸さまが全ての者に優しくなるくらい有り得んことじゃ。
わしは小さく身震いする。
きっと、音獄鬼からりんを救い出せてホッとしているだけに違いない。ん? いや待て。それじゃあやっぱり……。
堂々巡りである。
ふっとわしは藍色の夜空に散る幾千の星を見上げた。
思えば、りんがついて来るようになってからというもの、殺生丸さまのわしに対する扱いが以前に増してなおざりになった気がするのう。
わしは遠い目をして溜め息を吐く。
やれやれ。りんに倣ってここはわしも一つ、『殺生丸さまがわしに優しくなってくれますよーに☆』なんて流れ星に願ってみようかしら。
………………あー、なんか首が痛くなってきた。やっぱ正面向いてないときついわ、これ。
再びゴソゴソと真正面を向いたわしは、顎が外れるかと思うほど驚いた。
燻った火の光だけでも十分見て取れる。
――あの殺生丸さまが……殺生丸さまが笑っておられる! 嗜虐心をくすぐられた時とか不穏なこと考えてる時くらいしか笑わない、あの御人が!
――……どうやら、無意識で笑っておられるようだ。何じゃ幸せそうな顔をしおってからに。わしにも少しでいいからその顔向けてくれ。ああ、りん……殺生丸さまからそんな顔を向けてもらえるおまえが憎たらしい!
そんなことを思っていると、殺生丸さまがすっとこちらへ顔を向けた。
やばい! 寝たふりを……と思った時には既に手遅れ。主とわしの血走った瞳はばっちり合ってしまった。
なぶり殺されると思って土下座しようとした刹那、ふっと殺生丸さまはわしへ極上の微笑をくれた。
「うはあぁー、キレ〜……」
何とも形容しがたい美しさに、思わず言葉が口をついてしまう。
わしは目をキラキラさせてそのお顔に見入る。
…………次の瞬間…………。
「んー」
太陽が東の空から半分ほど顔を出した頃、りんが伸びをして目を擦った。
ようやく起きたかこの馬鹿娘が。
「殺生丸さま、おはよう」
「……ああ」
邪見さまも……とりんは言いかけて目を丸くする。眠気は吹っ飛んだようじゃ。
「あれ、どうしたの? 邪見さま。その顔……」
「なんでもないわ!」
キッとりんを睨みつけて、わしは地面を人頭杖でつつく。
ううう……顔が痛い。頬を滑る涙が染みる。
あのあと、予想どおりというか何というか……わしは殺生丸さまから殴られた。おかげで顔はボコボコ。心もボコボコじゃ。
わしはちらりと非難の眼差しを殺生丸さまへ送ってみたが、完全無視されてしまった。
そして、あろうことか「りん、放っておけ。行くぞ」と言い捨てた。
えええぇぇぇ、殺生丸さま! それはあんまりじゃありませんか!
「はいっ。行くよ、阿・吽」
「えぇっ!? ちょっと、りん! 殺生丸さまだけでなくおまえまで、こーんなに弱ってるわしを置いてくのっ?」
「はいはい、邪見さま早くー」
スタスタ先を行く二人と一匹(阿吽)。
待って〜とそれを慌てて追いかけるわし。
今日も殺生丸さまとの旅は続く。
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