小説
□勿忘草
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甘ったるい花々の匂いに嗅覚が麻痺する。
りんはそんな中へ、仰向けに倒れ込んだ。
扇状に広がった自らの豊かな黒髪をそのままに、じっと夜空を見上げる。
一片の星さえ見当たらない闇夜は、いっそ清々しい程に冴え渡っていた。
鈴虫の優しい羽音が耳をくすぐる。
どちらともなく取り決めた、人里と森の境目での逢瀬は何年も続いていた。
いつまでこの曖昧な逢瀬が続くかはわからないが――りんは毎夜のようにここへ来ていた。
ただ、あの人に会いたくて。
りんは静かに目を閉じた。
「――風邪を引くぞ――」
深みのある声が降ってくる。
目を開けば、銀色。
りんはそれへ手を伸ばす。
天の川の如く流麗な長い銀髪が、さらさらと零れた。
「殺生丸さま……」
なんだ、と殺生丸はりんの手首を掴んで引き上げる。りんの体は、すっぽりと殺生丸の腕の中に収まった。
「……大好き」
りんから洩れ出た言葉に、殺生丸は息を詰めた。
「住む世界が違うとしても、同じ時を生きられなくても、あたしは――ずっと、殺生丸さまのことが好き。大好き」
心の底から湧き上がってきた想いをりんは殺生丸へ贈った。
人と生きる道を選んだりんを、相変わらず見守っていてくれる、偉大なる妖へ。
たとえ離れていても心は共にあれるのだと理解して欲しくて――。
「……人里へなど、帰さねば良かった」
「え?」
「そう言ったら、お前は怒るか」
「殺生丸さま?」
りんを抱く殺生丸の腕に力が篭る。
「お前を冥界で死なせてしまった時、連れて来るべきではなかったと心底後悔したし、己を呪った。だからこそ、楓とやらにお前を預けたのだ」
いつもは寡黙で必要最低限のことしか喋らない殺生丸が、喉から搾り出すようにして言葉を紡ぐ。彼の目許に苦悶が浮かんだ。
「だが今は矛盾した考えが私を支配している。……人の世からお前を遠ざけ続け、私の袂に置いておけば良かった、と。そうすれば、あるいは――」
「言わないで」
りんは殺生丸の言葉を遮り、微笑んだ。
彼女の目尻から一筋の涙が伝い、花びらを揺らす。
憂いを帯びた金の眼が、りんを見つめる。
骨ばった指が彼女の顎を上向かせた。
唇と唇が触れ合い、離れ、また触れ合う。
りんは恍惚とした表情で小さく声を上げた。
艶めかしいそれを、殺生丸は愛しげに見つめる。
花の絨毯へ、りんは押し倒された。
彼は彼女の名前を繰り返し繰り返し、囁くように祈るように呼んだ。
――――違う道を歩いていても、あたしはあなたを忘れない。だから、殺生丸さま……あなたのその肌に、心に刻んで。
――あたしを決して忘れないで。
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