誰が袖<戴き物>

□可愛ぜし君の名は
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お嬢さんがこの薩摩藩邸にいらしてから大分経った。何でも大久保様のご友人が是非にと此方へ預けて行ったそうだけれど、どうやら訳有りのようだ。


「あっ紫依さん、おはようございます!」

「あらお嬢さん、お早いですね。其は…竹刀、ですか?」


今朝も元気に挨拶をしてくださるお嬢さんの人懐こい所が可愛らしくて、ついつい一言二言話が長引いてしまう。だけど私が「お嬢さん」とお呼びすると、決まってこの方は苦笑するのだ。


「ねぇ紫依さん、お嬢さんだなんて止めて。歳も近いのに、何だか変な感じで…」


私みたいに田舎から奉公に来た女中にも優しい。

こんな素晴らしい方だからか、彼女が来てから大久保様のご様子もかなり変わったようだった。
以前は、余りにも高貴で圧倒的なその佇まいから醸し出す空気がどうにも人を寄せ付けなかったのだが、その麗しい容姿に憧れを抱く女中も少なくなかった。つんとした表情で何を考えてるのか解らない。だけどそんな冷たい印象も美男子だからこそ許され、且つ女たちの自虐心を煽った。彼になら虐げられても良い、と。……実は私もその内の一人で、彼に恋心にも似た情さえ秘めていた。決して先輩や同僚には話さないけれど。
…しかし、その想いはこのお嬢さんの登場で違うものへと変わっていった。


「――…小娘、何をしている。半次郎は暇ではないのだぞ、稽古を申し出た本人が師を待たせてどうする」

「大久保さん」


あぁ、ほらまた。
お嬢さんが居る所に必ずと言って良いほど現れるこの方は、想像以上によく喋る人であった。ほとんどが彼女への小言ではあるけれど、西郷様とお話するような話し方ともまた違うのだ。何と言うかとても…、いとおしそうにお嬢さんを見ていらっしゃる。


「全く…大久保さんが小娘小娘言うから皆がわたしを名前で呼んでくれないんですよ?」


そう言って口を尖らせたお嬢さんに目を細めるお顔も意地悪というよりは優しさの方が勝っていて。だけどその眼差しを受けている本人が気付いていないのだから、関係のない私さえもどかしく感じた。


「また笑ってはぐらかすんだから…」


拗ねたようにして呟き、私に軽く会釈してから中庭へと足早に去っていった。


「お気を付けて」


大久保様が用意なさったという白い稽古着で颯爽と総髪を靡かせる背に頭を下げる。
…ふと。


「……そう簡単に名を呼んでは、一大事の時に味気無いだろうが…」


嘆息気味に紡がれた御言葉には、大久保様の愛情が目一杯込められていた。
そして何事もなかったようにくるりと踵を返し、「早朝務めご苦労」とお声をくださりながら、お嬢さんと反対方向に去っていく。

大久保様が言う一大事とは…。あぁ、考えただけで胸がきゅっと締まり、熱くなる。
彼の温かな表情を初めて見た時から、私たち女中を始め藩邸内の総ての住人が彼の幸せを願わずにはいられなかった。
慕情を募らせていた相手に想い人が出来たと言うのに、何故か皆、素直な気持ちで受け入れられたのだ。


「――…あら、紫依。随分早いのね」


同僚に声を掛けられ振り向いた。
私は満面の笑みで朝のお二人の様子を語った。










『可愛ぜし君の名は』
(でもやっぱり、あの優しさを独り占め出来るお嬢さんが羨ましい…)








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