【短編】

□君が誰より好きだから
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それは些細なことでの諍いだった。今となってはその理由さえ思い出せないような微かな原因で、だけど許せなかった自分は勢いに任せて…最愛の君を追い出してしまったんだ。でも……


君が誰より好きだから


かちゃりと部屋の鍵を開ける。マンションの入り口のセキュリティに比べて原始的なその音を聞きながらドアノブを回して部屋に入ると淀んだ部屋の空気が肺を満たし、つい眉間に皺がよってしまう。誰も居ない室内はがらんとしていて、自分の性格をそのまま表したようなそこは必要なもの以外何もなく簡素なものだ。その間取りや家具の配置はあの日から何も変わってなどいない。それなのに…やけに広く見える。そう感じた自分に苦笑いすると誰もいないその部屋の電気を付けてやっと上がり込んだ。

この部屋に住みだしたのは丁度1年前だ。自分の家から通え無くも無い電車と徒歩で1時間30分の道程でつく大学へ進学した矢先にこの部屋に住みはじめたのは一重に今は居ないあいつと少しでも長い時間を共有したかったが故のことだった。俺たちは恋人同士で付き合っていることはもう付き合いが長いものには周知の事実だ。実際思いを寄せるものが多かった恋人を獲得したときは嬉しさに我慢できず勢いのままに唇まで奪ってしまったほどだった。それでも俺たちは同性同士であることもあり、それ以上の関係にはなかなか成れない状態で、俺は日々やきもきしながら過ごしていた。その矢先に恋人から同居しないか?と誘われ、俺は喜びにしばらくの間ふとすればにやけてしまう状態であった。当然、ここに住みはじめた初日は自分にとっても大変な日で荷物を片付けた矢先から盛りのついた獣のごとく襲ってしまったのはある意味仕方の無いことだっただろう。そんな春真っ盛りの自分達が喧嘩をするようになってしまったのは皮肉にも一緒に住むようになったからだった。

初めて喧嘩をした原因はこのマンションの家賃についてだった。マンション自体の敷金や礼金を払ったのは自分だった。それは別に難しい事でもなく、鬼道財閥の嫡子にあたる自分には安い買い物でありなんでもない端金だった。でも恋人であるあいつはそうは思わなかったみたいだった。実際、最初の家賃を払うときにはじめに決めた金額以上の金を俺に押しつけてきて、少しずつ返すからと言われてしまったのだ。元来律儀で情に熱く、頑固であることを理解していた自分にとってその申し出は断ったとしても続けられることはわかっていた。だからこそ渋々その申し出を了承したのであった。そこまではよくある話で大した喧嘩ではないのだが…その後が色々問題だった。あいつは少しでも早く金額を返せるようにとアルバイトを始めてしまったのだ。内容はスポーツクラブのインストラクターとしてジムに来たお客さんの接客やらトレーニングメニューの提供やらで週に二日とのことだった。勿論自分としては二日だって恋人と過ごす時間を取られることは許しがたいことであり、当然ながら反発した。バイトじゃなくとも大学のサッカーチームにも入っているあいつは一週間のうち三日はそのチームの活動にも参加していて、自分も週に四日は大学のチームで活動していた。活動日が同じであればこうも文句は言わなかったのだが、実際俺たちは活動日もばらばらで一週間のうちちゃんとあえるのは一日しか無かったのだ。しかし、その日にちにバイトを入れることを約束してしまった様子で…折角の甘い生活に暗い影がゆっくりと迫っていた。


暗くなってきた室内に人工的な明かりが冷たい色合いを落としている。そろそろ夕飯の準備をしなくてはいけないと思い二人用にしては大きい冷蔵庫を開ける。一般家庭にあるものと遜色無いそれには残念ながら何一つ食材は入っておらず、つい口からため息が出てしまう。大体二人で暮らしているときはこんなことなど一度もなかったのだ。どんなに忙しくてもお互いが食材やら日用品やらを買ってきてはせっせと家事に励み、特にあいつは初心者にもかかわらず一生懸命取り組んでいて…柄にも無く新婚の新妻のようだと妄想してはにやけそうになる口元を隠したものだった。そのおかげかいつしか食べさせる側から食べる側に回ることが多くなり、その料理はかなりおいしい部類の味になっていた。その延長線上で冷蔵庫内の管理もあいつがしていた訳で…………居ないという事実が重くのしかかってくる。ふと自分の携帯を手に取り電話番号を探す。着信履歴には最近の日付など一つもないくせに全て同じ名前ばかりが占領していて…………指を動かしダイヤルを回す。


「……またか…」


コールする前に出てくる電子音をした女性のアナウンスが聞こえはじめ電話を切る。あの日から一向にこの調子なのだ。連絡を取りたい。会って謝ってしまって………帰ってきてもらいたい…そう思うのに…………実家には出ていった次の日に連絡を入れたが帰っていないとのことだった。あいつはよくも悪くも交友関係が驚くほど広く、分かる範囲で片っ端から電話を掛けたのだが、残念ながら全く捕まらず途方に暮れていたのだ。仕方なく財布を手に取ると夕飯を済ませるべく今し方居たはずの町へと繰り出したのだった。




いつもそうだ。俺はいつだって………ハッと目を覚ます。脳裏には眩しい光が差し込み、頭は起きたばかりだというのに驚くほど朦朧としている。ズキズキと頭全体が悲鳴を上げ、そのためか恐ろしいほどの吐き気が競りあがってきて…言うことの効かない身体を無理に動かしふらふらとトイレに向かうと全ての不快感をそこへ投げ出す。ついた途端に気持ち悪さは最高潮に達し、下を向けば呆気なく全てをそこへぶちまける。全く持って情けない惨めな姿に他ならなかった。

結局夕飯の後、どうにも埋まらない淋しさと悔しさにかまけて普段は行かない居酒屋へ直行するとそのまま大酒を食らってふらふらになりながら帰ってきたのだった。成人式の時だって全く手を付けなかったビールやら日本酒に手を伸ばしてよく急性アルコール中毒にならなかったものだと自分でも少し驚いている。でもそれ以上に気分は最悪で、心の中は淋しさで溢れだしそうだった。今ここにあいつがいたら間違いなくすがりつき泣きながらしがみつくという自分にはありえもしないような醜態を晒し、それでも必死に引き止めるのだろうと思える程には限界で……今すぐにでも全てを投げ出してしまいたい気持ちでいっぱいだった。

今日は学校を休むことにしよう。今まで、あいつが出ていった時でさえ学校など一度も休んだことはなかった。でも、心も身体も限界に来た自分を持て余し、ふらふらとベッドへ戻ると頭まで布団を被る。学校の友人や同じサッカーチームのメンバーにも連絡する気にもなれず俺はきつくシーツを握り締めるとゆっくりと目を閉じたのだった。


それからどれほどの時間が流れたのだろうか…分からないままゆっくり目を開けるとぼやけた世界のなかに声が響く。


「有人?…大丈夫か?」


身を乗り出してこちらを心配そうに見下ろしているその姿には見覚えがあって…息が詰まる。それでも無理矢理でも声を出したくて、唇が震える。


「…守」


ずっと…かれこれ一ヵ月近くは会えなかった恋人の名前が口からこぼれ落ちた。会いたくて会いたくて…あの日のことを何度後悔したかなんか分からない。それでも会えなくて会えなくて…空回りする気持ちと虚無感に立ちすくみ、それでも必死になって足を動かし、手を動かし、頭を動かし冷静を装い、平静を装い…全てを覆い隠した一ヵ月だった。たった一ヵ月けれど…これほどに長い一ヵ月など今まで過ごしたことなどなかったのだ。久しぶりに口から出た音はしっかりと相手の耳にも届いた様子で唇が瞳が緩やかに弧を描く。まるで、自分の淋しい心が生み出した幻想のような気がして、不安感に手を伸ばす。まだ酒は抜けてなど居ないのだろう。ぎしぎしと悲鳴を上げる身体やぐらぐらと揺れる脳が不快感を訴えるがそんなことなどどうでもよくて必死に伸ばした手で相手を捕らえると強く引っ張り無理矢理その身体をきつく抱き締める。


「…ゆ…うと…?」


驚いたように途切れがちに名前を呼ばれ、その声が自分の耳元にある唇から紡がれているという事実を確認するとさらに掻き抱く手には力が入り、ぎゅうぎゅうと抱きすくめながら言葉の代わりにぎりぎりと歯が音を立てる。きつく噛み締めるように相手の感覚を味わっていると少し控えめに自分の背中にも手が回され


「……有人…怒って…無いのか?」


心配そうに告げられる声はよく聞けば震えていて、そう思えば身体は勝手に動き、その首筋にチュッと音を立てて吸い付く。そうすれば何が言いたいのかわかった様子で円堂の顔がゆっくりあがり


「…有人…っ…ごめんっ…俺が…っ…俺が悪かったんっだ…ぅっ…ごめんっ!ごっめんっ!」


何度も謝りながら回された腕はきつく体を密着し合うものへと変わっていて、その声は間違いなく嗚咽で震え、涙はじわりと俺の肩口を濡らしていた。本当であれば俺が謝ったって良いことなのに……そう思えば自分の心の枷も限界できつく抱き締めるとうなるように低くか細い声が漏れる。


「っ俺こそ…悪かった…ずっとずっと…何度も謝ろうと必死だった…だって俺には…っ!…」


次の言葉を継ごうとすると唇を塞がれる。暖かくふわりと鼻孔をくすぐるその香はもうずっと記憶の奥深くに眠ってしまっていた感覚で、わかった途端にその感覚はゆっくりと離れてしまう。


「ちがうっ!俺が悪かったんだ…!…っ…有人に謝らせたくて…弱音を吐かせたくて帰ってきたんじゃないんだ…っ…ごめん…ずるくて………俺、有人が言ってた意味が…やっとわかったんだ…」


涙に濡れた瞳が自分を見つめている。紡がれた言葉と頬に触れる暖かい手のひらの感触を感じながら惚けるように相手を見つめていれば声がかかる


「家賃のことなんて…本当にバカらしいことだって…わかったんだ…っ…俺たちの喧嘩の大きな原因はいつだってそれで…でも、有人に出てけって言われて……毎日、他人の家を点々としながらバイトして……やっと気付いたんだ……俺、有人が居なきゃダメなんだ…っ…家事だってバイトだって何だって…お前が居たから出来ていたのに…そんなこと…すっかり忘れて…っ…出てけって言われて当然だ。…でも…それでも…っ…っ…やっぱりさよならなんて出来なくて…だって俺は……」


そこまで言われて自分の口がひと足早く言葉を紡いでいた


「…好きなんだ…俺も…守と同じように……っ……嫌いになんて…なれない」


その言葉に目の前の円堂の丸い瞳が潤むと表面張力の容量を越えたそれがぽろぽろとこぼれだし…キラキラとスパンコールのように落ちていくそれをそっと唇で受け取る。しょっぱい味が口内へ満ちると急に喉は渇きを訴えはじめ何度も瞳の辺りをなぞるように唇を這わせると軽い衝撃が身体に起こると同時に気付けば唇には先程の暖かく切ない感覚が再来していて、反射的に身体を引き寄せるとその唇に熱烈なキスをしてしまっていたのだった。





「今日はバイトは良いのか?」


あの後二人でキスをしあってうれしさに涙をこぼしあうと、水分不足に悲鳴を上げた俺に円堂は付きっきりで看病してくれている。とはいえ、病気でない上に情けない続きでため息を吐いてしまいそうなくらい気持ちは塞ぎ込んでいた。そんな自分を見せたくなくて思いついたことを相手に聞いてみると驚くべき答えが返ってくる。


「辞めたんだ」


驚きに微睡みそうになっていた視界は一気に開け、ついじろじろと相手を見てしまう。すると恥ずかしそうに顔をそらしながら声をかけられる。


「……だってさ…有人離れたくないんだ」


そういう円堂の瞳は思ったよりも真剣でじっと視線を合わせゆっくり頷くと円堂の手を取り一気に布団のなかへ引きずり込む。


「そんなに可愛いこと言われたら…さすがに歯止めが効かないものだな」


そういってその頬に口付けを落とすと幸せを夢見て唇を合わせあったのだった。

END

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