S/W

□Platonic Love
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 シアターを出て辺りを見渡すと、そこかしこに寄り添うカップルの姿があった。今日は聖バレンタインデー、この国ではクリスマスに次いで恋人達が一緒に過ごす日だから仕方ないのかもしれない。ボクもそんな慣習に則って愛しい恋人と映画などを見に来ているのだから人のことは言えない。
「いいなあ……」
 ポップコーンやジュースのゴミを分別して捨てるボクを尻目に、愛しい恋人はそんな呟きを漏らした。その目ではしっかりと戯れる他人を捉えている。
「くそ……っリア充爆発すればいいのに」
「君はリアルが充実していないの?」
「え……っあ、そういう訳じゃないんだよ、」
 慌ててボクを宥めるように言い繕う彼は、大きな身体に似合わず、少し可哀相なくらい戸惑っている。
 別に怒っているわけではないのだけど。ボクは息をついてボクの恋人が羨望する他人たちを眺めた。彼はいつだってああいった物理的な触れ合いを求めているし、それを親密さの指標としている。

 ボクはいつも、自分が男であればいいのにと思う。ボクが女であるばかりに、ボクと彼との物理的な触れ合いはたちまち肉体の愛に成りかねない危うさを有してしまう。だから、ボクには彼の『性』が欠乏しているのだ。
 プラトンは、人間は元来欠如を抱えた存在である、と言った。その欠如を欲し、求める衝動こそが則ち『恋』だという。
 ボクは、恐らく彼の男たる性質に恋をしているのだ。背が高くてガタイも良い、低い声の彼に。彼は一見誰もが認める男だ。もちろんそんなところだけを好きになったわけではない。実は人一倍優しくてフェミニストで優柔不断なところも、大好きだ。
 ボクが彼の性を愛しているのと同様に、彼はボクに彼の持たないものを見ている。求めている。そして彼が何より欲しているのは、彼が思い描く『理想の恋人関係』に他ならない。
「エロースは、美を渇望することだよ」
「その美は調合のとれた完璧なものなんだろう。分かってる、」
 薄暗い映画館のロビーを並んで歩きながら呟いたボクの言葉に、彼は半ば諦めたような声で応えてくれる。彼の、こういうところも好きだと思う。ボクが言った言葉を戯言のひとつも残さず覚えていてくれる。

―――正直な話、あの夜、彼の誘いをはねつけた時点で、ボクたちの関係は終わってしまうと思ったのだ。そうでなくても彼はボクとの物理的な距離に不満を持っているようだし、実際、ボクたちは「オカシイ」のだと思う。けれども彼は、ボクの薄情を赦してくれたばかりか自分が悪かったのだと頭を下げた。そうやってボクのすべてを受け入れてくれるところが彼の最上の「美」だ。あの場では突き放すようなことを言ったが、ボクが彼を裏切ることはないし、心変わりの予定も今のところは、ない。

「ねぇ、ボクは男に生まれたかったよ」
「……それ、どういう意味」
「簡潔明瞭に言えば、君のことを愛しているということ……かな?」
 ボクは笑ってみせた。すると彼は何だか釈然としないような、それでも嬉しさを堪え切れていない複雑な顔をして、息をつく。両手はコートのポケットの中に仕舞われていた。

 本当はボクだって、いつまでもプラトニック・ラブを気取っていられないことぐらい初めから理解っている。どんなに綺麗事を並べ立てたところで、精神愛への傾倒は結局のところイデア論なのだから。そも、プラトンだって肉体的な愛を完全否定した訳ではなくて、それが愛の中心となることを咎めたのだ。ましてや現代に生きる一般人であるボクたちがそれを遵守する必要なんてどこにもない。

 映画館の外に出ると、何時から降り始めたのか、辺りはすっかり白く染め上げられていた。一片が大きいからすぐに積もったのだろう。
「うわ、濡れるかなあ、これ」
 薄墨の空を睨みながらボクの恋人が言う。ボクは無言で鞄の中から折り畳み傘を出して、彼に渡した。
「ボクじゃ高さが足りないから君が持って」
「ああ、うん」
 一人用の折り畳み傘は二人で並んで入るには些か小さい。彼はそう言いたげにボクの顔を見た。
 ああ、ばかだなあ。
 こんな時まで彼はボクのふざけた主張を尊重してくれる。ボクはなんだか泣きたくなったので、笑ってみた。それから彼の左隣に移動して、そのポケットに手をお邪魔させる。あたたかな突き当たりの中で行き会った彼の大きな手を握ると、少しだけ湿っていた。
「……えっ?」
 まるまる3秒硬直した彼は、耳まで赤くしてボクと、自分のコートのポケットを交互に見る。その姿はなんだか可愛い。
「肩、濡れるよ?」
 右手で中途半端な高さに傘を掲げて、彼はそんなことを言う。そのくせ、左手はボクの右手を痛いくらい握り締めているのだから不自然だ。ボクは、ボクの愛しい恋人の腕に寄り添って、肩を竦めてみせた。
「雪だからへいきだよ」
 恋人に触れることで満たされる愛は、卑俗の愛なのだという。それに対するのが、エロース―――すなわち、天上への愛。ボクは彼の腕の温かさに、年来の意志が揺らぐのを感じた。









エロースへの反逆
(こちらの愛は、なんて甘美にボクを誘ってくるのだろう!)
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