薫風('13 新選組結成150周年記念)

□碧の景色
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 潮の匂いがした。もう二度とこの地を踏むことはあるまいと思っていた。
 政府を挙げて開拓が進められているおかげで、その変貌ぶりはめざましい物がある。
 東京に比べてこの土地の風は爽やかだが、榎本の心中はちっとも晴れやかにはならない。西洋風の教会が建ち並ぶ旧市街には戦争の気配など最早微塵も伺えないというのに、眼裏には、弔ってやることのできなかった同志たちの亡骸が焼き付いて離れないからだ。

 同朋たちのためのその場所へは、坂を登らねばならない。元来、ここは坂の多い街であった。よく歩兵たちがひいひい言いながら巡回していたものである。函館山の中腹に位置する「それ」がそう容易に辿り着けない場所であることは致し方のないことだ。
 膝に負荷をかける坂を一歩踏みしめる度に、榎本の額に汗が滲んだ。馬は宿に置いてきた。鎮魂をするのに、騎乗をしたままで良いという道理はない。そのようなことをしようものなら、きっと東京へ帰る榎本の船は、かつて本戦を待たずに沈没した開陽が如く、江差の海底に引きずり込まれるに違いない。

 少しだけ道が開けた。その先は草が短く刈られ、申し訳程度の階段が続いている。
 ずくりと心ノ臓が呻く。その不快感に眉根を寄せて再び歩きだした。
 一段、階段を上がる。それまでの暑さが嘘のように、ひやりとした空気だった。

 喧しく鳴き喚く蝉も、行く手を阻むようにまとわりついてくる蚊も、最早気にはならなかった。
 二段構造になった底部には礎石が四角く敷かれ、そこへ黒い扉のある土台と、その上に飾り石に囲まれた直方体の碑が建てられていた。碑面には大鳥が書いたらしい『碧血碑』の文字が、泰然と在る。一見すると小振りな塔のようなそれは、しかし榎本にとっては墓石以外の何者でもなかった。無論それが著すのは死者の名ではなく、その純粋で、揺らぐことのなかった精神である。
 鉛のようになった脚を無理矢理働かせてその碑の周囲を一回りする。丁度真横に来て目線を上げると、海岸線まで一望できた。


 嗚呼、

 見ているかね、

 榎本は霞む視界をそのままに、わずかに口唇を動かした。海を臨み、人家を臨む心地は何とも形容し難い。

 君たちは、ここから、君
たちの命を奪った安寧の世を見つめている。それは、君たちの瞳に、一体どのように写るのだろうか。

 嗄れた声が碑名をなぞった一瞬後に、じゅわ、と蝉の声がにわかに耳に届いた。榎本は目を眇めて口角を持ち上げる。

 否、彼らに瞳などない。この急拵えの安寧の行く先を見届けるのは、生き残った者以外にはないのである。
 榎本は巨大な墓石に背を向けた。階段を下りきって再度振り返ったその墓碑は、そこに刻まれた字の如く碧く佇んでいた。




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