S/W

□甘い闇にくちづけを
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甘い闇に
    



 窓の外を見ると、もう空は白みかけていた。震える手を窓枠にかけ、それを細目に開ける。ひいやりとした夜気が滑り込み、綾一の乱れた心にいっそう翳を落とした。今更になって背筋が冷えてきた。朝が近づいてくるというのに、何もかもが闇を纏い出す。
 ツと振り返った先に、白い寝台がある。そこに横たわっているのは、白い肌に白い包帯を巻いた、サイプリスだ。静かに眠る彼は、身動ぎ一つしない。呼吸さえ、しない。ただひたすらに、この最愛の友人は眠り続ける。
 綾一は、白い友人を見つめたままで立ち尽くしていた。頬が濡れるのは、恐らく鼻についた冷気の所為だろう。―――そうでなくてはならない。まさか、サイプリスがもう二度と目を覚まさないなどということが、現実であろうはずがない。

 寝台脇(ベッドサイド)へ歩み寄ってその頬に手を当てると、まだぬくもりを感じられた。そのまま指を滑らせて、首筋に触れる。微動だにしないサイプリスの脈拍を、綾一はもう何度も確かめているのだ。―――そしてその度毎に現実を、思い知る。

「―――サイプリス、」

 くず落ちた四肢を、支える力などもうどこにもなかった。身も、心も―――絶望に冒される。



† † †



『電報かい? 患者さんから?』
 紅茶をいれながら問うてくるサイプリスに、小さく首を振ってみせた。彼は綾一が手に持つ紙片を背後から覗き込む。絹糸のように美しい髪が肩口を流れていた。
『いいや、妻からだ』
『何かあったんじゃないのか……? いつもは手紙がきているじゃないか』
 サイプリスは心配そうに顔をしかめて綾一を見る。綾一は無言で紙片に目を落としたままだ。『シキュウ カエレ』とだけ綴られたその電報はあまりに早急であった。妻本人からの電報だと、綾一にはどうしても納得がいかなかった。
『悪戯かもしれない。要件すらも書かないのはいくらなんでも不自然だ』
『そんなことを言って―――もしかしたら相当逼迫した状況なのかも知れないじゃないか。行っておやりよ』
『だが……』
 サイプリスの言葉に難色を示すと、彼はたしなめるように綾一の名を呼ぶ。まったくお人好しだ、と綾一は溜め息をついた。町の中には、サイプリスが一連の少女惨殺の犯人だとみなす者もいるのだ。逆恨みで、何を分かったものではない状況にある。そのことをサイプリスが気が付いていないはずがない。彼は人一倍他人の言動に敏感な男だ。
『それじゃあサイプリス、君も一緒に行くぞ。君一人をここに残しておくわけにはいかない』
『いやだなあ、リョウ。子供じゃあるまいし、留守番のひとつくらい私にだって出来るよ。―――私は遠慮しよう。君だって、たまには家族水入らずの時間を過ごしたいだろう?』
 サイプリスの語気は珍しく強いものだった。彼は綾一が正月にさえ実家の妻子の元に帰らないのをひどく気にしていたから、それは彼からしてみれば当然のことなのかもしれない。
『だが、サイプリス……、』
『頼む、行ってあげてくれ。家族なんてものはね―――いつ壊れてしまうか、分かったものじゃないんだから』
 ね、と優しく微笑むサイプリスの表情には翳が落ちている。彼は若くして両親を亡くし、今は天涯孤独の身だ。その彼に言われては、綾一は頷かざるをえない。
『ありがとう。―――よい時間をね、リョウイチ』








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